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「存在論的転回」の実行って、無意識の審級における神経症者から倒錯者への主体の位置の変更なんじゃないの?

はじめに断っておきたいが、この記事は、近年の人類学やデザインで流行しているらしい「存在論的転回」を学術的に厳密に語るものではなく、私自身の耳に届いてる「存在論的転回」について勝手に語るものである。実際、「存在論的転回」自体、厳密に定義されたものではなく論者によって定義が異なるし、定義が異なることこそ重要だと考えている節もないではない。そのため、私は、私が認識している「存在論的転回」の限度で、当該概念が問題意識として置く西洋的な見方への懐疑という点で当該概念自体が西洋的な究極幻想であることをここに示そう。

ニュートン:目標は完全に沈黙しました。

1955年のセミネールにおいてラカンは聴衆に対して一つの奇妙な質問を出す。「星はどうしてしゃべらないのだろうか」と。これにたいするラカンの回答は「第一に、星には何も言いたいことがないから、第二に、星には時間がないから、第三に、星を黙らせてしまったから」というものであった。〔…〕空に輝く星は昔から何もしゃべらなかったわけではない。オリオン座、大熊座、天の川、牽牛、織女……これらの星は太古の時代からわれわれに語りかけてくるのを止めなかった。星をめぐる神話や伝説は世界中どこでも無数に存在している。かつてわれわれが夜空を眺めていたとき、星たちはわれわれにこれらの話を語りかけてきたのであり、われわれはそれにやさしく耳を傾けていたのであった。だが現代のわれわれにはもうそれが聞こえない。あるときから星たちは突然黙りこくってしまったのである。むしろラカンの言うように、星を黙らせてしまったのだ。いったい誰が星を黙らせたと言えるのだろう。

向井雅明「真理と知」『imago(イマーゴ)』Vol.6-13, 1995, pp.214-231.

この後に続く向井の回答は「ニュートン」であり、「数学」の適用である。歴史的事実としてそうであったかどうかはともかく、この文章の趣旨としては、形而上学や科学(西欧近代における主観と客観)といった緻密に張り巡らされる象徴的ネットワーク(関係的な差異の網の目。その効果としての実体的な二項対立が発生する)の高精細化によって、宇宙は何の意味シニフィエもない数式シニフィアンの連鎖に還元されるようになり、人々から想像力を奪ってしまった=星には言いたいことはなくなってしまった、ということである。人によっては、このことを「物の殺害」だとか「文字は殺す」だとか呼ぶこともある。

過去に物理学者を目指していた私から言わせれば、こうしたファンタジーは物理学者において完全に消滅したわけではなく、占星術が政治や生活と密接に結びついていた時代の古代中国の天文学などと同様とは言わないが、素粒子研究から宇宙の誕生を想像するといったラインで形を変えて人々の駆動原理になっていると思われるが(そうでなければ科学的言述は作動しないため。)、言いたいことはわからないではない。科学的言述=神経症的言述で世界が満たされるほど、専門家でない一般の人々から〈想像的なもの〉は奪われていき、やがて窒息するに至るということだろう。それは対象から存在の生き生きした部分が抜け落ち、沈黙してしまうということである。

この存在の生き生きした部分はいったいどこへいったのだろうか? 科学ではダメだ、形而上学でもダメだ、無機質で人工的な都市の中には見出せそうにない、そもそも西洋的な価値観の中に見出せそうにない……というところから、どうも文化人類学者から偶然にもフィールドワークで論理的な記述からこぼれる何かがあるという話が出てきた。それを大発見だと思ったのか、それを自分たちが喪失してしまった存在の生き生きした部分ではないか?みたいなことを思ったのかは知らないが、そう思ったとしても不思議ではない状況に現代社会は置かれているといえるであろう。

「星たちの沈黙」に関して、一度も逢ったことはないが、私の実家のわりと近所に住んでいるらしい、ある老人はこんなことを言っている。

「ファンタジーの力」ですけれど、それはもう実際自分の体験がそうだったので。不安に満ちてた自信のない自己表現の下手な自分が、なにか自由になれたというのは、ある時は手塚(治虫)さんのマンガであったり、ある時は誰かから借りた本を読んでであったりしたわけです。それが今、「現実を直視しろ、直視しろ」ってやたらに言うけども、現実を直視したら自信をなくしてしまう人間が、とりあえずそこで自分が主人公になれる空間を持つっていうことがファンタジーの力だと思うんです。〔…〕ただ、魔法の力が信じられないとか言う人たちはいます。〔…〕むしろぬけぬけと平気でうそをつくのはかなり強靭な力が必要なんで。自分自身の中に、なんて言うんでしょうね、ある自由さを失うと、僕は精神の衰弱と呼んでますけども、そうすると自分が物語を作ったときにはやたらいろんな説明をつけ始めるんですよね。SFの人たちが、これは四次元波動でなんたらかんたらでエネルギーがどうのこうのという、あんなものは「魔法」の一言でいいわけですよね。

宮崎駿『折り返し点 1997~2008』(岩波書店、2008年)246頁

ただし、この老人は、それがジレンマであることを認めつつ、ファンタジーに溺れてリアルに触れない人間は次の作品の担い手にはならないだろうという趣旨のことも述べていることを付け加えておこう。〈現実的なものリアル〉を遮蔽する幻想リアリティの維持には、逆説的に〈現実的なものリアル〉からのリビドーの備給アブダクションが必要であるのだ。そしてそれが今、科学的言述によって閉ざされてしまっている。すべては科学ゼーレのシナリオ通りというわけだ。

「存在論的転回」に迫られる人たちは誰か?

私のラフな認識をもとにすると、この「存在論的転回」というものはどういうものかといえば、たとえば、論理的思考や合理主義を重視する西洋の人類学者がいて、西洋諸国からすれば「未開の」部族のフィールドワークに赴いたとき、そうした主客関係を前提とする観察という行為が暴力的であることや論理的記述から逃れるものがあることなどを理由に、西洋的な意識的思考や価値観、さらには近代的なパラダイムに対して価値下げを行い、代わって論理性や合理性に囚われない「多元的な」又は「独自の」見方ないし概念があることを発見したという話のようである。

こうした「存在論的転回」が否定的に見る対象を列挙すると、たとえば、意識、認識、主客関係、論理コプラ、合理主義、自律的個人、形而上学、科学、数学・計量、西洋的価値観などである。個別の議論はあると思うが、全体的に見ると、「存在論的転回」とは、表面的にはどう言おうが、明らかにこの記事の冒頭で述べたような神経症的窒息状況俺に生きる実感をくれえええ!を前提としている。「存在論的転回」の仮想敵を「認識論」と呼ぼうが「科学的観察」と呼ぼうが本来的にどうでもいいことであるが、つまりは、理詰めの息苦しさの彼岸にあるオアシスを西洋以外の場所に物質的な何かとして夢想したという点が重要であるだろう。たとえそれが蜃気楼のようなものであるとしても。たとえそれが恨むべき科学的言述自体が生産した効果であるとしても。

「存在論的転回」のロールモデルとしての倒錯者

写真1 オーストラリアの森林

私は「存在論的転回」が誤りだというつもりはない。それは西洋的価値観に根差した究極幻想であるということである。その理由は、フロイトが既に述べているといえる。哀しいかな、レヴィ=ストロースをはじめとして人類学者が『トーテムとタブー』を精確に「読めなかった」ばかりに遅かれ早かれ進む道であったともいえる。それどころか、「無意識」という概念さえ忘れてしまったようだ。アジア人としては大乗仏教でも結構だが、西洋人としてはどうせ転回するならばフロイトに還ってほしい。ラカンがしたように。あるいは日本人としてこう言い返すべきか。「西洋の人類学者……西洋へお帰り! この先はお前の世界ではないのよ! ねえ、いい子だから!」。あるいはこちらの受け止め方のほうが私としては好みか。「それでもいい。西洋人は西洋で、私は日本で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ。飛行機に乗って」。

写真2 日本

……笑えないジョークを言ってないで、もう少し厳密に語ろう。いまの話は「存在論的転回」に対する神経症者の受け止め方のいくらかを揶揄しただけである。問題は、神経症者にとってアクセスできない幻想だったものにアクセスできる倒錯者のほうだ。彼・彼女らが「存在論的転回」後の姿であり、いわばロールモデルである。神経症者のままでいては「存在論的転回」はなしえない。

「存在論的転回」における「存在」は、論理形式化の袋小路である〈現実的なもの〉に依拠しつつも、それを覆い隠す〈想像的なもの〉を存在として積極的に誤認し、又は故意に意味をすり替える(それゆえ必然的に素朴実在論に至る)。二項対立ないし差異の網の目としての〈象徴的なもの〉を認めつつ、それを無力化すると同時に、不安を動機として幻想を「存在」と称し、幻想に自らの身を捧げて溺れ、独自の法により他者を能動的に支配することを是とする立場と言ってもよい。平たく言えば、巾着袋の中を宇宙としたときの巾着袋を裏返したような「剥き出しの内側」であり、「大人になりきれなかった大人になりかけの子供」である。端的に言えば、精神分析では「倒錯」という忘れられたカテゴリーに該当する。すなわち、「存在論的転回」の実行とは、物質的対象オブジェクトを軸とする見かけとは逆に、無意識の審級における神経症者から倒錯者への主体サブジェクトの移行を意味する。なお、欧米ではともかく、我が国は言語的特性述語制様式も相まって国際比較上は倒錯天国であり、転回の必要性がどこまであるか不明であるし、必要性で転回の有無をコントロールできるとも思えないのであるが、そのあたりは積極的に検討された形跡が見当たらない。

写真3 この写真画像に意味はありません。あなたに語りかけるかもしれませんがね。
写真4 Adobe "State of Create: 2016"(2016年11月10日) より引用

神経症者においては論理(快感原則)を超えたところの神秘的な何かを投影する論理(快感原則)を支える例外に置かれた究極幻想に過ぎないものが、倒錯者ではその不安をもとに論理自体が倒錯者の支配により内側に置かれて手放されない(倒錯者は剥き出しの内側であるがゆえに倒錯である。)。倒錯の中でもフェティシズムオブジェクト嗜好に近づけて述べれば、神経症者では特殊なプレイのために周囲の目を気にして例外的に隠れておしゃぶりを使うことを空想するところが、倒錯者では周囲の目が視界に入りつつも何も気にせずむしろそれを利用しながら堂々とおしゃぶりを咥えているといった相違である。「存在論的転回」からの主張とは、要するに、彼・彼女らの見解によれば、「おしゃぶりをしゃぶってるやつがいても上から目線で気持ち悪いとか言うなよ」、「おまえの常識とは違う次元で動いているんだよ」、「おまえだって気持ち悪いやつのひとつのパターンなんだよ」というわけである。

倒錯者の最も嫌悪するところは、倒錯の対象(たとえば、絵画作品)を他者により言語化されることである。一度、対象を言語化されてしまうと、〈象徴的なもの〉に絡みとられることになり、独自の法による能動的な支配が困難となり、享楽を反復し続けることが困難となるからである。言い換えれば、倒錯者は社会を認識していながら社会に絡みとられることを拒絶する。ああだこうだと難癖をつけながら社会的に共有された言葉で言い表せることを徹底的に拒否する。何なら社会的賞賛ごと放棄する。たとえば、現代アートは、そうした解釈から逃れようとする極度の倒錯的な試みと呼べるものであり、制作者の側からすれば、展示という衆人環視の方法をとっているにもかかわらず、鑑賞者に解釈されて意味を析出されることをこころよく思わないだろうし、鑑賞者に解釈されるような作品にしたくないとこころから願っているものと思われる。この記事やこの前の記事だって猛烈に批判されるだろう。倒錯者としてはそうでなくてはならない(批判する気になれなかったら、あなたは神経症者である。よくもわるくも立派な大人だ。)。その代わりに、自身の「体験」とか「体感」といったものを要求し、エビデンスベースの考え方から距離をとるのである。「おまえ、つべこべ言ってないで、まずはおしゃぶりをしゃぶってみな?」、「おしゃぶりもしゃぶったことがないやつが何言ってんだ? ばぶー」と。

倒錯行為が神経症者にとって羞恥的なものである(そして密かに羨望的なものであることが多い)のは、もちろん、倒錯行為が性交渉の想像的代理物メタファになっているからである。誰もが決して認めようとはしない=神経症者からすれば抑圧されるものであるが。この点で、フロイトは慧眼だったというほかないし、現代科学の隆盛に乗じてある意味で「似非科学のセクハラ発言おじさん」として社会的に抹殺されたのもうなずける。フロイトを持ち出されるのが気に入らないというのならば、神経症的構成を突き詰めて、最新の脳神経科学の研究成果との相同性を持ち出しても結構だが、結論に変わりはない。

いま述べたことはすべて無意識の審級の話、認識でもなければ、存在でも非存在でもなく「実現されなかった領野」の話である。……ん、アクターネットワーク? 関係論? そんなものは私の幻想リアリティの中にはないね。そもそも無意識は他者の語らい、言語ランガージュとして構造化されたものなのだから、そんなことは考えなくていい。特に倒錯者を目指すならば。

(執筆者:平塚翔太)

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