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アートキュレーション

この記事について

この記事は、令和3年5月3日(月)に開催された、武蔵野美術大学大学院造形構想研究科修士課程造形構想専攻クリエイティブリーダシップコース(以下「本研究科」といいます。)の科目である「クリエイティブリーダーシップ特論」(以下「CL特論」といいます。)の第4回のエッセイです。

最前線でご活躍される方の連続講演イベント第4回のスピーカーは、アートキュレーターである鈴木潤子様です。事前に若杉教授からは「アートのためのアート」ではなく「アートと社会、私たちの社会そのものを、いつも考えている実践派」、「現場力の強い方」とのご紹介を受けております。いつもどおり私が無知で「アートキュレーター」という職業をそもそも存じ上げなかったのですが、美術館などの展示企画のディレクター(現場監督?)というイメージのようです。

そういうわけで、例によって書き手である私は諸々ググりながらこの記事を書いていることをご容赦ください。以下に述べることは、私の勝手な解釈であり、講演に対する印象論に過ぎません。この記事に含まれる誤りのすべては執筆者である私の責任に帰しますので、読者の皆様におかれましては、あらかじめご了承ください。

講演内容について

マスコミの勉強をして通信社に入った。美術の仕事は美術大学に入らないとできないと思っていた。取材するよりも取材されるコンテンツをつくりたいかなと思うようになった。どちらもやってみたかった。仕事を辞めてからミュージアムで働きたいと思い、たまたま日本科学未来館というところに勤めた。アカデミックでも美術の畑でもやってきたわけではなかった。

ということで、バックグラウンドとしてはもともとアートの方ではなかったというところから、ほかのアートキュレーターとは異なり、「社会」というところに強い視点があったのだろうと推測されます。その後、鈴木様は森美術館に勤務することになります。当時は科学未来館の上司の後押しもあったとのことで、2年後に未来館に戻って仕事もされています。私も日本科学未来館にはけっこう見学に行ってましたが、「アート」というより完全に「サイエンス」のところですね。

森美術館で美術の最先端に触れた後は、自分が本当に求められる存在なのか試してみようと思い、独立したそうです。ただ、2か月後に東日本巨大地震が発生して一度仕事が全部なくなったそうです。自分のところに来た美術以外の仕事も受けつつ、オリパラの招致委員会等の PR の仕事に入っていきます。コミュニケーションが本質の仕事だったとのことですが、そこでイベント設計や空間設計を経験したことで、展覧会をやろうと思うに至ったようです。そこで、偶然に無印良品の展覧会を受け、10年経ったとのことでした。

その後、まったくない空間から展覧会をつくっていって最後の日に完成する展覧会など、逆転した見方を提示するような展覧会を次々と開催していきます。「始まりの日は床材が置いてあるだけだった」というような展覧会は訪れる人の性質に依存します。直江津のケースでは、次のようにおっしゃられました。

「外からどれだけお金を持ってこられるか」という考え方は健康的ではない。どうすれば街に活気を取り戻せるか。キュレーターの役割は美術の文脈で一番いい作家を一番いい形で地域に沿わせて新しいものを産むことだと思っていて、それが私に求められていると思った。〔…〕アートが逆に問われている。「アートは要るのか?」と。みんなで 100 年後を考えたかった。自分でできないことをできるようにどう設計するかがキュレーションだ。〔…〕美しい自然を前にアートが介入する必要はあるのか? それを超える必要がある。〔…〕誰よりも自分が見たい。みんなにも見せたい。

「寄り道と道草は無駄がない」

ご講演中に発せられた掲題の言葉は(たとえ結果論だとしても)私にも響くものです。かの有名な「点と点をつなぐこと」と同趣旨の言葉ではないかと思いますが、より身近で親しみやすい言葉で逆説的に表現するあたりが鈴木様らしさなのかなと感じました。全体的に表現のわかりやすさ、繊細さ、大胆さがあるなと思いました。私も「寄り道」と「道草」ばかりなので、ご講演を拝聴してなんとなく考えるものがありました。もう最近は実質的に、そうなんだうわぁとか、何か思うところがあるなぁとか、それ以外の感想が出せないでおり、もう少し気の利いたことが書けるようになりたいな、などと思ったりもしています。その点で、(いま書いている私の一連のエッセイもある種のキュレーション的側面があるという意味では)お話しくださったアートキュレーションの向き合い方として、複数的な意図や偶然的な結果に統合する選択肢(ご講演中でこういう堅い表現はしていませんでしたが)や神の手助けがあると考えることが面白いなぁと思いました。もちろん、裏ではご自身で並々ならぬ行動や繊細な配慮があってこそなのだとは思いますが。

毎回、ご講演から何を学べばいいのか、ご講演とどう向き合えばいいのかとても悩むのですが、それぞれ個性豊かな生き方、人間性があり、これらを「学び」(科学的諸手続)として特定の手順や観点、営業的又は技術的な知見に還元することは、私としては断固として反対の立場だという思いが強まる一方で、あまり有益な感想を述べられないという問題を抱えています。そもそも各人の固有のモードをアルゴリズムないしパラメータに解消したところで、抜け殻、ガラクタだと思うんですよね…どうしますかねぇ…

(執筆者:平塚翔太/本研究科 M1)

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