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気づくことに気づくことがブランドにつながるという話なんだろうなって。

この記事について

こんにちは、平塚です。予定より執筆が遅れに遅れていますが、気にしないでください。この記事は、武蔵野美術大学大学院造形構想研究科修士課程造形構想専攻クリエイティブリーダーシップコース(以下「本研究科」といいます。)の科目である「クリエイティブリーダーシップ特論」(以下「CL特論」といいます。)における令和3年9月20日(月)に開催されたCL特論の第11回のエッセイです。最前線でご活躍される方の連続講演イベント第11回のスピーカーは、大阪芸術大学デザイン学科グラフィックデザインコース教授、美術専門学校校長、グラフィックデザイナーの三木健様です。私の中では「りんごを語る人」として記憶されていますが(過去に造形構想基盤という授業で同種のバナナ案を企画して参考にしていたため。なお、バナナ案はボツになった。そんなばなな!)、今回はあえてりんごの話を出さないとのことでした。

講演内容について

今回のご講演テーマは、三木様のデザインの発想法、構想の仕方です。

僕自身はですね、話すようにデザインをするということを日々心掛けてまして、それを「話すデザイン」なんていう言い方をしています。もう一方で、「聞くデザイン」、コミュニケーションの合間の中でずっと思考を膨らませて、会議をしているだとか打ち合わせ中だとかの間に、自分の中にある経験値だとか、依頼主の課題をまず理解をいかにするかということで、必死で頭を動かして、そこで見つかる言葉を紡いで、そこの打ち合わせを帰るまでに向き合い方だとか方針を固めて帰るようにしています。その時に、ときどき全然違うところに自分の頭が飛んでしまって、道草だとか寄り道なんていうのをやってて、ああこの話全然つまらんなと思ったら聞いているんですが聞いていないことがときどきあります。聞くデザインという形で人の話をいっぱい聞くんですけど、道草とか寄り道している時に、依頼主の言葉、スタッフの言葉、自分の発する言葉も含めて、急に何かにぽんとひらめく瞬間があるんですね。偶然の幸運に出会う能力を鍛えようと思ってて、今日持ち帰っていただきたい言葉があるんですが、「セレンディピティ」という言葉があります。偶然の幸運に出会う能力。で、能力だから鍛えることができるんだろう、なんていうふうに思っていて、日々、いかに自分が偶然の幸運に出会えるんだろうということで、道草だとか、寄り道だとか、遊び心をすごく大切にします。〔強調引用者〕

ということで、サイエンスの領域ではおなじみ「セレンディピティ(徴候的知)」のお話が出てきました。語源の調査は意外と困難なのですが、どうも英国の小説家 Horace Walpole が童話 "The Three Princes of Serendip" に着想を得て 1754 年につくった造語のようです。

童話の内容としては、通俗的理解によれば、セレンディップ王国(アラビア語でスリランカを意味するらしい)の3人の王子が旅をする中で自分たちが求めていたものではないものに出会うというものです。が、実際にお話を読むと、どちらかといえば僅かな証拠に目をつけて問題を解決した結果として他国のコンサルに就任するという話になっています。

もともとの童話の内容はともかく、セレンディピティとは、演繹や帰納とは異なる知的能力のことであり、端的に〈欲望の原因-対象〉(この概念のひとつの定義は「まなざし」であり、言い換えれば「私はあなたが私を見たのを見た」)を主体の側から見た概念だと理解して構わないと思います。平たく言えば「気づく」とか「ひらめく」といったところになりますが、これは意識的で能動的な水準ではなく無意識で受動的な水準です。論者によっては「対象/オブジェクトの側から呼びかけられている」と表現するのではないかとも思われます。

今日は、考え方、作り方、伝え方、学び方ということで、「気づきに気づくデザインの発想法」というのを展開していきたいと思います。話すデザイン、デザインを話すように物語化しながら展開すると捉えていただいてもいいかもしれません。〔…〕「話すようにデザインする」とはどんなことかといいますと、〔…〕話の断片を会話の中からひっかかる言葉、理念に繋がる言葉を会話しながら探しています。道草、余談の中に発想のヒントが潜んでいることが多くって、それらを見つけながら自分の中で仮説を持っていきます。そこで勝手に妄想にも似た物語を組み立てていきます。〔…〕いわゆるコンセプトというものを色々な断片から探していきます。あるときですね、道草してて「あ、これこれこれ」というようなものが自分の中でぽんとひらめくことがあります。視点を変えてみたりしながら、物事の自分の体験なんかを重ね合わせながら発想を広げていくと、話すデザイン design as we talk というふうに「私たち」という概念でチームで考えるんですけど〔…〕先ほどの色々な方々の会話がいわばシンボルマークの骨格だと捉えてください。決してシンボルマークであるわけではありません。みなさんの考え方が集まってきて、考え方の象徴、コンセプトのようなものができてきます。〔…〕その思考が物語化できるんだろうか、わかりやすくみんなに伝わるんだろうか、その後広がりを持つんだろうか、といったことを考えながら、このような組み立てが思考の中で広がっていきます。話すデザインというのは、対話を見える化、可視化することだと考えています。〔強調引用者〕

まずは「気づきに気づく」ために「会話」というものを利用しています。次に、そこから理念に繋がる言葉を紡いで物語ないしコンセプトをつくるということですね。言葉を紡いでいる過程については、三木様は端的にこれを「対話の可視化」だと表現しています。

もう一方で、「聞くデザイン」ということで、僕たちは五感を総動員させて物事を見つめています。〔…〕すべての五感が一斉に立ち上がりながら僕たちは情報を得ている。「聞く」というのも単に聞くという音声だけではなく同時に脳裏の中に色々なものが浮かび上がってきます。人の考え方、脳を借りるということを「借脳」なんていう言い方をしています。「借景」といって日本とか中国で外の庭の風景を内側に呼び込んでくるみたいな考え方なんですが、人の脳を借りちゃえみたいなことを常々思っています。たとえば、ここに他人の脳があって、それがどんどんどんどん進んでいくと気付かなかったことに発想がジャンプしてぽんと出会うことがあります。新しい価値が見つかるとでもいうのでしょうか。

ご講演では様々なケースのご紹介がありましたが、セレンディピティ(平たく言えば、気づくこと)が鍛えられる能力であることから、「気づきに気づく」ことにコミットすることで新しい価値を発見するというメタな発想がすべての根底にあるわけですね。それが「話すデザイン/聞くデザイン」である、と。たしか私の記憶だとりんごのほうもその系統のお話だった気がしますね。私のバナナ案も同じ発想だったんですけどね。……えーと、それで、セレンディピティからどうしてブランドの話に飛ぶのか若干理解が追いつきませんでしたが、おそらくは、(1) 気づくことに気づきやすい → (2) 考え方の断片に気づきやすい → (3) 考え方の断片を集積しやすい → (4) コンセプトをつくりやすい → (5) ブランディング=絆づくりしやすい、ということなのでしょう。いや、ご趣旨は異なるかもしれませんが、そう捉えておきたいと思います。発想の源泉となる無意識は他者の語らい(聴覚イメージの連鎖)ですから、きっと「聞こえている」のでしょう。音楽家的に言えば「降りてきた」ですかね。人の心の内側には外側が詰まっていて、それが意識で縫合されると、とりあえずは理解しておきたいと思います。

ご講演は「セレンディピティ」というテーマにふさわしく、全体的に話がランダムウォークベースというかブリコラージュというか、そういった印象を受け、表向きの話し方のわかりやすさの背後の動きについていくのが相当しんどいと感じましたが、俯瞰すると遡及的に軌跡が描けるというのがとてもデザイン的ですかね。とてもわかりやすいお話なのですが、見かけのわかりやすさとは異なりとても深い気がしていますが、ちょっと考えすぎですかね。こういうのは理詰めで踏み込みにくい領域を理詰めで踏み込もうとするところにそもそもの無理がありますから、ここは「頭で考えるな、心で感じろ」という締め方で濁しておきたいと思います。

(執筆者:平塚翔太/本研究科 M1)

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