序 黒蝶の夜へと手を招く
●あらすじ(ネタバレを回避したい方は飛ばしてください)
人の悪夢が「黒蝶」の姿を取る世界。その蝶を喰らう「浮橋様」という存在。そして、「浮橋様」に仕える者たちの物語。
主人公・氷雨は「浮橋様」を主とする「浮橋屋敷」で働く少年。「浮橋屋敷」は、人々の悪夢を、すなわち黒蝶を取り除くための場所だ。氷雨は新人、その役目は「蝶の捕り役」。屋敷を訪れる者の黒蝶を捕る仕事。
彼は重大な秘密を知っている。それは、「浮橋様」が、死んだはずの幼馴染・雪代と全く同じ姿形をしていること。そんな秘密を抱えながら、彼は「浮橋様」に直接仕える立場である「月下藍」を目指し始める。深山、連翹、引鶴、翡翠、各々の心の傷と悪夢を抱えた、仲間たちに囲まれながら……。
早瀬川 水脈さかのぼる 鵜飼舟 まづこの世にも いかが苦しき
「手招き草」の香がする。
布がかすかに揺れるたび、香の強さが少しずつ変わる。そして、それがやわらかく鼻先をなでていく。
氷雨はぼんやりとそれを感じながら、畳の上に寝転がっていた。首元にやわらかく刺さる、黒水晶色の髪。頭上で牡丹の花弁のようにはためく、宵闇を含んで薄暗い青緑色の布々。
「ひさめー」
布の重なりの向こうから、深山のよく通る声がする。それに続けて、布をかき分ける音。氷雨は寝転がったまま、ずりずりと音を立てて手を伸ばす。やがて、乾いた竹籠の感触が、彼の指先をつついた。
「ここにいるの、本当に好きだね……」
深山の独り言。部屋の壁一帯を覆う布が、天女の衣のように輝く。さわさわ、と木漏れ日のように音を立てて震える。
「お早う」
布の隙間から、深山が顔を出した。「月下蛍」の入った青白い手提灯のそばに浮かび上がる、一つに結ったつややかな黒髪。それが、夜闇にとっぷりと沈んだ部屋の中でもよく映えていた。
「お早う、深山」
氷雨は身体を起こした。頭を撫でる布の感触。よく磨かれた床は、枯れ枝のように細い体をよく反射している。思わず氷雨は、白い着物の襟を直した。
「じきに夜が来るよ。『宿主』がいらっしゃる。お前も準備をしな」
「もうそんな時間か」
暖簾のように布をかき分けながら、ゆっくりと立ち上がる。すると、長押から長押へと渡した、幾つもの竹竿が見えた。そこに、幾枚もの布が掛けられている。それが滝のように床へと垂れ下がっていて、氷雨の髪を撫でるのだった。
「竹籠も持ってる」
「なら良し」
橙色の着物に身を包んだ深山は、形のよい唇を軽くゆるめる。それも一瞬、すぐに表情を引きしめると、さっとその場にかがみこんだ。
「布の香も上々だね。うん、今日の出来は自画自賛しても釣りが出る」
「いつもそれ言ってるよ」
美しく染め上げられた布をすくい上げる深山。雨に濡れる葉に似た青緑色の布からは、砂糖を混ぜた湯のような、かすかに甘い香がした。「手招き草」氷雨は一重瞼の瞳を細めて、ほう、と息をつく。
「……おれ、やっぱりこの香が好きだ。一杯に吸い込むと、懐かしい夢を見た後に似た気持ちになる」
「そうか」
そう言いながらちらりと氷雨の方を見た深山は、目を細めて低く呟いた。
「お前も未だ、内に黒羽の蝶を飼っているか……」
す、と戸を開く音。二人が部屋を出ると同時に、部屋から明かりが消え、布は先程より少し濃くなった闇の中に黙する。
闇の色、それは人の内に生まれ出づる、不思議な蝶の羽の色。
甘く懐かしき香に手招かれて現れる、妖しき蝶の羽の色。
氷雨の手元で、竹籠がからりと音を立てた。
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