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シュルレアリスムにしては整然としすぎている何か

 深層心理の水面の、美しいあぶくを掬うようにして、小説を書いている。

 シュルレアリスム絵画は深層心理を描き出したものとされる。一見意味が解らないけれど、欲、夢、そういった、人間が奥深くに有しているものを描いているから、目が離せなくなる。シュルレアリスム絵画が好きだったらしいと、最近気づいた。本当に最近のことだ。
 意味不明でありながら、人を引きつける作品が書きたいと思った。しかし私の作品は、それにしては整然としすぎている。常識の範疇を越えない。「春は桜」「秋は紅葉」に囚われている。描写は上手い、美しいと言われる。しかし、それまでである。美しいから忘れ去られるのではないかと、ずっと思ってきた。美しいゆえに、心に引っかかることはない。虚飾的な美しさであり、それは本質的な美しさではない。
 寂しさを描きたいとエッセイに書いた。それは、深層心理の奥にあるものだと思う。人間の醜いところや、愚かなところと一緒に、寂しさは沈んでいる。そういった人間の生々しいところを、私は人よりうまく描くことができない。美しさに仮託した小説しか書くことができない。自分の文章は確かに美しいのかもしれないが、醜いものを避ける潔癖さがある。寂しさはそれに合うと思っていたが、一緒になって沈んでいるものを無視しているから、本当に寂しいものではなく、真似のようなものにしかならない。

「表現には見るべきものがあるが、ストーリーには魅力を感じない」
「人の心の機微が描けていない」
 昔、実際に、いわれたことのある言葉である。

 人間が怖い。何を考えているかわからない。笑顔がどうして笑顔ではないのだろう。婉曲表現を好む人間が何を言っているのだろうか? それを描くのが小説だとわかっていても、人間という得体の知れないものへの恐怖心を、日常生活から取り払うことができない。それゆえに、全ての人は離れていく。愛着障害? 小説においても、それが起こりえる。
 解決策はわかっている。一刻も早く、深層心理の湖に飛び込みなさい。その水は冷たくて、私の虚飾的な美しさを、全て取り払ってくれるだろう。しかしその虚飾がアイデンティティと一繋ぎになっているとしたら? 美しさは壁として弱い我城を守っているうちに、城の一部になってしまった。壁を崩せば、何かを見つけられるだろうか? そう簡単に崩せるのか、と問われる。城は湖の上に建っている。どうやって飛び込めるだろう。壁を破壊し、城を破壊し、その破片を糧として湖に入るのだ。城は何製だっただろうか? はやく、飛び込まなくてはと逡巡して、もう何年になるだろうか?
 整然と虚飾を書いている。この世界で美しさは嘘になる。理想は遥か彼方の空飛ぶ島であり、人間の本質は底の見えない湖である。どこに行けばいいかもわからず、美しいだけの地図を手に持ちながら、ぽつぽつと植物の生えた砂漠の上に立っている。
 描写だけを書いていたい。しかしそれは小説ではない。作品に現れる人間は全てのっぺらぼうのようで、彼らが何を考えているのか、私にもわからない。自分の分身だろうに! いや、これは集合体である。自分という存在は一部でしかない。テクスト論。だから理解できないと? それは技量不足である! もっと精進せよ!
 ロボットにシュルレアリスム絵画は描けるのか? 人の機微を描けないのは人間の欠陥か。夢を見るのは人間だけか。どうして起きた時、夢の内容を全て忘れてしまうのか。質の悪い夢を見続け、それもすぐに忘れてしまう。人はそれを、慢性的な睡眠不足と言う。
 いくつか覚えている夢は、起きがけに脚色した。記憶の捏造。澄んだエメラルド色の海を、古びた板の上に乗って流されていく夢だ。その視界の先には、かすんだ海辺の町が見えた。美しいだけの夢だった。なのにどうして覚えているのか。何年も前に見たはずの夢なのに。一体、何が違うというのだろう……

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