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黄泉の国の時刻表

息子は、幼い頃からたびたび東京のおじいちゃん、おばあちゃんにあずかってもらう機会がありました。こどもは乗り物が大好きですから、おじいちゃんはよく孫を連れてふたりで電車に揺られるだけのレジャーを楽しんでいたようです。

もともと、もの静かなおじいちゃんは時刻表のマニアです。

複雑な列車ダイヤが彼にとってのクロスワード・パズルのようなものだったのでしょう。ひとり分厚い時刻表を隅々まで眺めては、イメージの中の旅を楽しんでいるようでした。

その頃から息子は、停まっている自転車のスポークをひたすら廻して見つめることや、交差点や踏切の信号機に対する興味が、親の目から見て、笑い話程度ではあっても”異常”に思えるほどになっていきました。

幼い息子の口癖は、「にたい、いち~っ!にたい、いち~っ!」でした。

これは都営地下鉄三田線の構内放送が「三田行き~っ!」と言っているのを彼なりに”翻訳”したもので、お題目のように、彼の記憶の中に刷り込まれていきました。

将来の息子の夢が、地下鉄の運転手になることだったのも、私たち家族には自然な流れといえました。

中学の卒業が近づくと、息子は自分で取り寄せた東京の鉄道高校のパンフレットを持ち、私たち両親の説得に当りました。そのような顛末から彼は、程なく、おじいちゃん、おばあちゃんの住む東京の家から、自分の選んだ鉄道高校に通うことになりました。

高校時代の彼のアルバイト先は、代々先輩から引き継がれていたという新宿駅の私鉄の駅務係でした。その巨大な改札の2階のベランダに息子は度々、杖を片手にしたおじいちゃんの姿を見かけたといいます。

新宿駅までは1時間近くもかかる自宅から、不自由な足で電車を乗り継いで、孫が働く姿を、彼に気づかれないように、改札から遠く離れた場所から眺めていたのです。

それが頻繁だったにも関わらず、おじいちゃんは決して改札に寄ってくることもなく、また自宅に帰ってもそんな話題には一切触れなかったといいます。孫や、そもそも駅務に迷惑をかけないという、マニアらしい礼儀とそのこだわりが、おじいちゃんの中にあったのでしょう。

高校を卒業すると息子は、本当に鉄道会社に勤めることになりました。「才能は環境がつくる」といいます。おじいちゃんのDNAは、親族の誰の目から見ても、確実に孫に引き継がれることになりました。

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時はずっと過ぎて、おじいちゃんの悲しい出棺の日。

孫である私たちの息子の手から、冷たくなったおじいちゃんの棺に納められたのは、古い国鉄助役帽と時刻表でした。息子の話しによるとおじいちゃんは、時々この帽子をかぶりながら、その細い目をもっとすぼめて、ひとり無心に時刻表を眺めていたのだといいます。

優しい孫からのこの最後のそして最高のプレゼントは、おじいちゃんの永い旅のお供に、その棺の中で一緒に焼かれました。

84年分という分厚い時刻表を片手に、誰にでも優しかった私たちのおじいちゃんの魂は今頃、助役帽を斜にかぶり、「黄泉の国」のどの辺りをひた走っているのでしょうか。

神無月、既に十数年を経た、おじいちゃんのその命日に。

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