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こどもはアリナシ?人生の選択。

こどもとおとな

こどもの成長は早いものだ。
正確にいうと、変化が早い。
大人が成長したり老化したりしていく変化よりも早く、失敗と成長を繰り返す。

自分の子どもが、制服を着るようになった。
その時、不思議と、喜びと寂しさが混ざっていた。

それを複雑に思う。
そういうのは平気だと思っていたから。

人嫌いの私が、子どもの温もりは心地よく感じた。
なぜ、子どもはゆるせたのだろうか。


こどもとは、なんだろうか。

それは、私ではないけれど、私のからだからつくられたもの。
それがひとりでに大きくなって、別のものになっていく。
やがて、一人立ちしていくもの。

そこを目的として、私は子育ての役を引き受けているのだけれど、

赤ちゃんの頃にはなかった類の情が、一緒に生活をして世話をするうちに、芽生えたのかもしれない。

今でも、
親がいなくても生きていけるのに必要な体と心と能力を育てることを目標にしている。
母親として無償の愛情を与える世間的イメージみたいなところは目指していない。

育てる方は、言葉ほど大袈裟なものではなく、
健康な体と、自分のことを好きでいられる心と、料理をつくるのが苦に感じない程度の環境と練習機会を与えたい。
それは、私が母であるよりも、ただ先に生まれただけの先輩として、後輩に託したいと思っている願いだからだ。

先に生まれて体を得た私は、たまたまよい環境に恵まれ生き延びることができた。
だから、同じように、
あとに生まれた後輩にも、生き延びるための手伝いをしたい。
生きる術を残したい。先の親がそうしてくれたように。先の親にしてほしかったように。

おとなはこどもより先にいなくなるのが、自然の理なのだから。

そんな動機。

とはいえ、
こどもがいる方が幸せか?
という質問は難しい。

最初の3年をいうならば、
個人的な主観で悪いが、
間違いなく幸福度は下がる。

幸せやね~
と言われたときに感じた違和感が、リトマス紙的にそれを物語っている。

睡眠を愛する私にとって、
数時間経たずに鳴り響くアラーム、しかも、なかなか止まらないスヌーズ機能付きの生き物と暮らすのは地獄だった。

赤ちゃんだから、怒りをぶつけてはならないし、放っておけば空腹で死んでしまうし、夜中に代わってくれる酔狂な人間もいなかった。
夜間のシッターをお金で雇うほど金持ちでもなし。
むしろ、そうしたいと人に言うこと自体よくないことのような気がして、言いたくなかった。

だから、自業自得なのだが、
誰かに相談したとして、解決したとも思えない。
理解されず、腹は立ったと思う。

結局、
産んだ側の負担が重すぎるのだ。
産む前から産んだ後まで。

私は好奇心が人生の舵取りをしているところがあるので、体験できて満足ではあるが、幸福度は間違いなく著しく低下した。

だから、子どもを産まない選択をしている人が増えているときいても、無理からぬことだと思う。

けれど、
子どもがいるのが不幸かと問われれば、それもまた違うと思う。

確かに自分を愛する時間はめっぽう減るけれど、
そこで生じる不快と、子どもがもたらす稀有な気付きや温もりの光とがコントラストを成して、綺麗な絵みたいになる。

だから、
光はとても明るく感じるし、
あとで振り返ると幸せにみえる。

幸福度が下がることが多いけれど、上がったり下がったりも案外楽しい。

むかし、
すごく苦しいことがないと、すごく楽しいこともない、というようなことを先生に言われたけれど、
そういうことなのかもしれない。

ひとついえることは、自分ひとりではここへ来られなかったということ。

間違いなく、子どもという存在は、ひとりでは来られない場所へ連れていってくれる。
そこがどこであれ、好奇心を愛する私としては、子どものある人生も悪くないよと言いたくなる。

大事な人がいた方が、人生少しは寂しさが紛れるのである。

こどもアリナシ?
の答えは人それぞれでいいのだが、
私においてはアリだったかなと思う。

ただそれが自己満足で終わらないよう、子どもと一緒に成長していきたい。

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