#8 ユリイカ

「あなたが私の息苦しさを理解しないのと同じようにわたしもあなたのさみしさは理解できない。それはあなたとわたしが別の人間だから。…ないがしろにされたと感じたなら悪かった。だから歩み寄ろう」
「わかり合えないのに?」
「そうわかり合えないから」
ヤマシタトモコ『違国日記』page.13


昨日も今日も明日も、いつもイチブンノイチを聞いてくださりありがとうございます。
はじめましての人もそうでない人もごきげんよう。今まで表に一切出てこなかったイチブンノイチのプロデューサーを務める平成オジサンことサトウが今回のnoteをお送りいたします。プロデューサーと言っても名ばかりで実権はほとんど無いに等しい存在、象徴のようなものです。ライク ア エンペラー。ちなみに私もパーソナリティサイトウくんと同じく水難の相ありです。

ありがたいことにリスナーからのお手紙も少しずつ増えてきており、このようなラジオでも誰かの人生の一時の明かりになれるのだなと、思わず涙ぐんでしまいました。本当に至福の限りでございます。

このnoteを皆さんが目にする、つまり今回のゲストであるヒサトさん回のフィナーレが配信されるのは冬の勢いが激しくなる手前、さながら冬斥候とも形容できるような季節かと思います。息を吸うと身体の深部で感じられる嗅覚とも触覚とも言い難い、名もなき冬の感覚に触れながら聴くフィナーレにリスナーの皆さんは何を思うのでしょうか。

さて、ヒサトさんをお招きしてのイチブンノイチ「#8おとな科学電話相談室」はいかがだったでしょうか。今回のゲストのヒサトさんとイチブンノイチクルー(但しヤマモトくんは除く)の縁は深く、ゲスト出演が決まった際の喜びはひとしおでありました。改めてヒサトさんありがとうございました。
今回の収録は名前というアイデンティティにまつわる話から始まり、フェミニズムやジェンダーといった話題でイチブンノイチに新しい風を吹き込みながらトークが展開していきました。

「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」とはアインシュタインの言葉ですが、人は誰しもが周りの環境から影響を受け、他者とわかり合うための術=常識を身につけながら成長し、いずれイチブンノイチになり得る人間味を伴って成長していくわけです。けれどもその常識とは本当に目の前(や周り)のどんな他者とも共有できるものなのでしょうか?環境が変われば身につける常識や認識は各々異なるわけで、ヒサトさんが言うところの「普通」や3章でも話題に上がったジェンダーの問題にも根底の部分で通じる話であるようにも思います。私たちは本質的に同じでは”ない”はずなのに相手も同じで”ある”と思い込んで目の前の他者と接してしまうが故に軋轢や齟齬を生んでしまってはいまいか。または自らと異なる主義主張を持つ同じでは”ない”者とわかった途端に対話の回路を分断してしまっていないか。TwitterやFacebookといったSNSで他者の主義・思考が可視化され、日常的かつ容易に目にすることができるようになった今、そのような場面に出会す機会は増えたように思います。

ではそのような状況に対峙した時、我慢を伴う同調や分断以外に私たちができることはあるのでしょうか。図らずも今回のゲストであるヒサトさんの生業にこそ、そのヒントがあるのではでしょうか。ヒサトさんはフェミニズムやジェンダーといったトピックをはじめとして多種多様なジャンルの記事を執筆するライターさんでもあります。ライターの職能は事象にまつわる取材を重ね記事を書くこと(個人的な思い込みとザックリとした断定で恐縮ですが)にありますが、そこには他者の話に耳を傾けて客観的な事実という像を結ぼうとする「傾聴」と「対話」の姿勢が欠かせないように思います。「傾聴」と「対話」を通じて、目の前の他者を一人の個人として向き合うこと。私たちはそうした地道なやりとりを重ねていき、自身と他者との差異を理解することでしかわかり合えないのではないでしょうか。そんな当たり前のように思えることを明文化するのも、そんな当たり前のことすら蔑ろにされている現実が横たわっているからに他ならず、向き合う必要があると考えているからでしょう。それは人間味を産地直送で届けようとするイチブンノイチというラジオが目指すところなのかもしれません。

人と人は魂が繋がっていない以上、完全にはわかり合うことはできない。しかしわかり合おうとすることはできる。その結果わからないのであればそれもそれで良いし、そこからまた新しい「傾聴」と「対話」が始まるかもしれません。私たちはバラバラのままでも手を繋ぎ合うことはできるのだから。


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