メモ 「再現性の危機」が暗示する科学の多様な正しさ ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の関係

以前の記事「恣意的に使われる”科学的”という言葉の危険性。『The Psychology of Totalitarianism』の正しくない感想」(https://note.com/ichi_twnovel/n/n7703f73f12d2)に書いたように一部をのぞいてほとんどの科学には再現性の危機がある。これを回避するためのアプローチもいろいろ研究されていて、事前登録(preregistration)などはそのひとつだ。このへんの事情については下記の記事がわかりやすい。

「再現性の危機」はあるか?(natureダイジェスト、2016年8月号、https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v13/n8/「再現性の危機」はあるか?%26minus%3B調査結果%26minus%3B/77048)

多くの論文を確認してはいないが、見た範囲では「正しい手順を遵守すれば再現性の問題は起きない」という前提の発想が多いようだ。行ってみれば調査や実験を厳密に定義し、実行できるようするという話だ。
しかし、多くの論文に再現性の問題が見つかっていることと、それが長い間看過され、今でも多くの科学者が看過していることは、そもそも現在の科学とは研究者によって異なる結果が出るアプローチを取っており、それは研究個々人の問題ではなく、科学全体の問題と考える方が自然だ。だって、問題おおすぎるんだから、そっちを例外として事故を減らすという発想はおかしい
運転した人間の半分が事故を起こす自動車があった時、事故を減らす対策は自動車そのものを見直すことで運転手の意識じゃないと思う。

たとえば、再現できないのは異なる方法で追試するからであって同じ方法で追試すれば多くの場合は再現できるはずだ。それができないのだから再現性の危機だと言われそうだが、そうではない。たとえば、再現できない論文には研究者が意図的に都合のよいデータや解析結果を選んで使っていたケースも少なくない。ならば、同じ結論になるようにデータや解析結果を選べばいい。あるいは研究対象が偏っていたなら、同じ研究対象を選べばいい。こうしたことを行うと、再現性はだいぶよくなると思う。そのことになんの意味があるのかというと、異なる世界には異なるアプローチと正しさがあるという話なのだ。

科学理論というものの発展が社会的影響を受けていることは今や当たり前のことだし、社会が違うと科学理論も異なるものが正当とされることも知られている(リセンコとか)。後者は明らかに誤りと言われているが、当時のソ連邦ではそれは正しいことだった。科学理論は時間が経てば更新され、古いものは誤っていたものとなる。時間を経て起こることが、体制の差で起きていたという話だ。

ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のどちらが正しいかなんてことを人は考えない。前提が違うのだ。同じように科学も前提の違う世界では異なる正しい理論があってもおかしくない。ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学を間違っているなんて批判するのは意味がない。公理が違う。そういう視点で再現性の危機を再定義し、

・どのような前提の違いがあったのか?
・それは結果にどのような影響を及ぼしたのか?

を考える方が前向きだと思う。言ってみれば科学の公理の整理だ。だって、半分以上に問題あったのに、厳密にやれば大丈夫と考えるなんて、ひどく教条的で無駄が多いようにしか思えない。
ノイズは排除すべきものだけど、たくさんのノイズはノイズそのものを研究すべきだという重要な示唆だと思う。少なくともカオス理論や量子論はそういう発想をしていた。
これはおそらくデジタル影響工作のナラティブの戦いでも同じことが言える

関連図書
『The Psychology of Totalitarianism』
『Reality+: Virtual Worlds and the Problems of Philosophy』


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