見出し画像

見える苦労、見えない苦労

頭痛がひどくて、立ち上がるとズキズキと痛む。

そういえば、忘れかけていたsuzuriに以前出品していた商品が購入されたという通知が入った。
とっても嬉しくって、顔も名前も知らない誰かに感謝したし、自分の中にエネルギーが生まれた実感がある。

ただ、やる気に溢れているのに頭痛はひどいので、本日はnoteだけにしたい。

持病を抱えて10年

私は持病持ちだ。
学生の時に発病し、何と今年で10周年。全く嬉しくないアニバーサリーを迎えることになった。

その持病は、まだ誰に対しても大っぴらにしたくない気持ちがあるので、今のところは病名は伏せたいが、「完治」と呼ばれる状態がなく、ややこしいものである。

例えると、腰痛ヘルニアなんかも「完治」という状態はなく、「寛解」と言って症状が治まって病院で異常が見られない状態を指す言葉があり、それから回復を判断できる。

その持病もそうで、私の場合は10年も経っているのにも関わらず寛解できず、その苦労も話し尽くせないもの。
なので、それらに対する心持ちを今回このnoteでまとめたいと思う。

自分が経験していないことは想像できない

持病に関して、10年経ってやっと「苦労してきたな」と客観的に思うことができた。人と比べてではなく、自分はよくやってきたな、褒めてやりたいな、と言う意味で。

そのきっかけは、長年病気の私を見守ってきた母親にインタビューしたことだった。10年にも渡る病歴を文章にして書類にまとめなければいけない機会があり、その際母親に、時系列に沿って事細かく当時の記憶を思い出してもらったのだ。

文章に起こすのだから第三者にもわかりやすい表現をしなければいけないのだから、客観的な目線で文章を書き起こしていた。

数時間もの間、母親が口にする全ての内容をカチカチとキーボードで書き進めていく訳だが、「これはすごい出来事だな」と思った。思ったというより、思わざるを得なかった。それほど、10年の間に異様な出来事が散りばめられていた。

具体的な例はあまり話したくないのだが、私に対して24時間体制で訪問看護がセッティングされていたらしい。また、緊急入院で数十万円が簡単に飛んでいったこと。母親の方も限界がきていたこと。など。

2023年の今、居間のこたつテーブルで行われていたインタビューによって、今まで私が目を向けてこなかったそれらの事実が、目の前の現実として、メモアプリに連なってゆく。

話を戻すと、「人ごととして」苦労したなあと思える日々を送っていた。「苦労した分だけいいことあるよ!」と言い切りたい所だが、そう思えるまで時間がかかったのが現実だった。

(補足)
・人間の脳は都合よいので、抱えきれない記憶は消すらしい。なので、私は昔の記憶が断片的でほとんど覚えていないため、上記のように母親にインタビューした。
・人の苦労は比べるものではないが、果てしない苦労をしてきた人もいるのはよくわかっている上で、自分もよく頑張ったなとやっと認められた段階。

苦労は分かってもらおうとしない

私が持病を隠し通すように、私の身の回りも特に持病を抱えていると言う話は聞かない。持病を隠して生きている人も数えきれないほどいるかもしれないと想像できる。
過去、似た経験をしたよと言う人はいるが、私はその苦労は経験してないのでわからないし、相手も私の経験と全く同じではないので、なんともいえない。

そんな時に感じたこととして、「苦労は、人からわかるものじゃない」ということ。

その考えに至った経緯として、自分の苦労が人に伝わらない経験からと言うのは何とも恥ずかしいが、苦労ほど人に伝えるのが難しいこと、純度高く伝えることが難しいことないのだろうか。

簡単な例で言うと、高校2年生の頃は高校3年生に待ち受ける受験の苦しみは想像できないだろう。そして、それを経験して今まで生きてきた現在のあなたに聞きたい。東大を目指している高校3年生の苦しみは想像できるだろうか

滑り止めと東大の差は天と地の差であるから、落ちることは許されない。家族などの周囲のプレッシャー、東大出身の親類の顔が頭の中で並び、親類の中の自分のポジションと自分の信念とのすり合わせに苦しむ。東大志願の友人らのモチベーション、自分の高校生活を勉強に費やしたことへの本音…

色々あるだろう。でも、東大志願していない筆者は全て想像することしかできない
聞いた話、本や映像で見たもの、思い浮かぶイメージ… 想像できることは、自分が経験したことの範囲で、点を打ってつなげる事しかできない。

当事者にならないとわからないことがあまりにもある。

「人の気持ちになろう」という、小中学校の道徳の授業でよく問われるような話があるが、相手の人の気持ちになんてなれっこない。
その人自身にならないと、その人の気持ちなんてわからない。それらをわかっていないと、相手への歩み寄りだったり「思いやり」というのが、ただのエゴに変貌してしまう。

お互い分かり合えないからこそ

話が逸れてしまったが、境遇、環境、苦境、バックグラウンドなど、全く同じ経験をしている人間は実はこの世に1人もいないと思うのが持論。

世界のどこかに似たような人はいるかもしれないが、それは「似ている」だけで、全く同じではない。
そして、相手の苦労が分からないように、自分の苦労もまた、相手に分かってもらえないのである。

上記の話を入れ替えると、
「こんなに頑張っているのに」「こんなに苦しんだのに」そう思っても、相手の理解は相手の経験と知識の範囲でしか想像できないので、こちらの苦労がわかることはない。

なので、「分かってくれるだろう」という期待は相手のためにも自分のためにもならないことが分かる。

私もこういう話をしながら、付き合いが長い人に対して「分かってもらえるだろう」というかすかな期待を持ってしまうことがある。恥ずかしながら。

相手の苦労も自分の苦労も、完全に分かり合うことなんて無理なことなのに。

それでも知らない部分に対して、思いやりという、断定せずに想像の範疇で様々な可能性を持ってくれる友人たちのおかげで、健やかな人間関係を育むことができる。

その人たちを見ていると、苦労した分だけ、人の苦労に気持ちを傾ける事ができるし、人の優しさをより受け取ることができるというのがよくわかる。

苦労は伝えず、その分相手の優しさに感謝を伝える事が、自分にとっても相手にとっても、苦労の報いになるのかなと思う。

最後に

持病の話をしたが、持病に関係ある所でも関係ない所でもたくさん人の優しさに触れてきた。
ちくちく残るような棘のある言葉も投げかけられるし、宝物のような暖かな言葉もプレゼントされたこともある。

どの相手も、苦労した頃の出来事をときたまポロッとこぼす。隠しきれず滲み出てくるような発言に深くは触れず、こちらは辛い苦労を自分の想像の範囲内で思うことしかできない。
でも、ポロッとこぼれるほど苦労してきた相手の経験は、その人の良さを引き立てるんだろうなと心から思える。

題名に「見える苦労、見えない苦労」と書いた。

自分しか知らない苦労も、自分からは見えない相手の苦労も、優しさの交換をして感じ取っていけるのかもしれない、というのがこのnoteの行き着いたところだ。

そういう人でありたいし、そういう人を大切にしてゆきたい。

2023/05/01
ukaukiwa



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?