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イラストを辞めるボーダーライン

実は、イラストレーターは「イラストを描いている人」と自覚があれば誰でも名乗れる肩書きだ。

所感、プロでもアマチュアでも描出能力をアピールポイントとする人は、イラストレーターを肩書きにしている。
SNSを覗けばイラストレーターとプロフィール欄に描いている人口の多さに驚くし、街では数えきれないほどのイラストが広告や販促物、冊子などに使われている。

そんなイラストレーターの私だけど、私は今後続けていくか辞めてしまうのか、そういった境界線に立っている。

状況を説明させてもらうと、私はプロとして3年目だ。携わった仕事は全国規模で販売されていたり、会社員時代は社内でイラストを描くポジションで、Webや紙などの媒体で数年は形として残るものを作った。

しかし離職により、実務的なイラストの作成時間はグッと減った。その中で、仕事としても趣味としても「イラストを描きたい」という欲が日に日に目減りしていくのがわかる。スランプの自覚もありながら、イラストレーターの自分と、そうでない自分の境界線にいるなと思った。

今回のnoteがイラストレーターのメンタルを知りたい人、またクリエイティブを生業にしたいが悩んでいる人、スランプになっていて解決の糸口を探したい人などの参考になればと思う。

初めに言わせてもらうと、また堂々とイラストを描けるようになりたい。
前向きな具備録として、今の葛藤や気づきを残させてほしい。

ときめくことが減った

心が動くような経験や、風が通るような爽やかな気持ちが減ることは、イラスト制作、しいてはクリエイティブに影響が出てくると思う。

平たくいうと「感受性」が大切で、「外部からの刺激をどれだけ感じ取るか」は、何もない所から物を作り出すクリエイターには欠かせない能力だと思う。

私は本当にその能力が減ってから、モノづくりに感受性が必要なんだなと痛感した。

窓の外の木々に差す光の美しさ、晴れた日のビル群のコントラストの対比、飲食店で流れる民謡ポップスの音の心地良さ…

そういった物に着目する習慣がなくなると、美しく絵になるものがその場にあっても気づくこともなく、視点がいかなくなる。

感受性が高いと、日常の景色でさえ美しく尊く見えるのは特権だと思う。日常からヒントを得たことで制作意欲に繋がったり、制作の1つの表現方法になり得るので、普段の生活こそがイラストやクリエイティブそのものとなる。

写真の良さがわからなくなった

クリエイティブに熱心だった頃に比べると私は、見える色の数が減って光の向きや反射光が見えなくなった。
以前に比べると何を見ても平たく、疲れも感動もしない視野になった。

私は趣味でミラーレスカメラを使っていたことから、写真については多少知識があると思っていた。外出時にはカメラを持ち歩き、Adobe Lightroomでレタッチまで行なっていた。

今では、iPhoneのカメラで写真を撮ることすら減っていった。
写真の構図やカラーバランス、モチーフの面白さの魅せ方まで気が配れていたのに、今ではプロが撮った写真でさえ「これはいい写真だ」と気付けない。技術面の感動や撮影者が伝えたいメッセージを受け取れず、心揺さぶられる気持ちにもならなくなった。

それに本当に失礼だが「画像データ」という位置付けにまで格下げされている自覚がある。プロが撮った写真が並ぶ、雑誌のページでさえ軽く読み流し、写真の美しさやそれを撮る苦労などに気づけない。

私はクリエイターの友人と話していて「このモチーフと背景の対比がいいね」「色が FUJIFILMかな?シャドウが綺麗」など、クリエイター目線で写真や動画を語らうことが大好きだった。しかし、イラストが描けなくなった時期ぐらいから、この感覚が風のようにどこかに通り過ぎた。

世に出ている制作物に目がいかなくなることは、イラストをはじめモノを作れなくなる理由の一つになると思う。

最新の流行を追っていない

クリエイターは技術者の中でも、最新情報やスキルを更新し続けていかないと、あっという間に時代遅れになって需要が低くなる職種だと思う。

かくいう私も、最近の流行に取り残されている実感がある。
スキルはもとい、都内にいながら最新ファッションも流行りのイラストデザインもピンときていない程、情報収集の能力が下がっている。

動画やデザイン、イラストの流行りに乗っているつもりだったが、冷静に見ると少し過去のものばかりで今現在やこれからの流行りが分からないなと気づく。

流行りの疎さの理由として病気治療中という建前はあるのだが、情報は入れないと出せない
インプットとアウトプットの問題にもなるのだけれども、イラストをはじめとしたクリエイティブは、資料や経験、過去作ったもの積み重ねがないと完成まで持っていくことは極めて難しいはず。
真っ白な紙や画面にゼロから作り上げているように見えて、様々な蓄積をもとに作り上げるのがクリエイターだと思う。

しかもイラストレーターとなると、お客さんや現代の世間に向けてイラストという商材を売るのだから、流行は本当に無視することはできない。
クリエイター同士の流行も取り入れることは必要。スキルを向上させないと、横並びだと思った他のイラストレーターがぐんぐん先へ行って、自分はあっという間に取り残されてゆく。

情報まとめサイト、SNS、雑誌、美術館、投稿サイト、オープンキャンパス、街にある販促物…
自宅を中心にしても情報収集する手段はいくらでもある良い時代。良質な情報を入れて、自分の満足のいくクリエイティブのきっかけにしたり、プロとしてお客の希望に一番に応えられるように情報のストックはいつでも貯めておきたい。

古い機材を使っている

2023年6月のApple発表会で、私が使用しているiPad pro 2016とMacbook pro 2015、両方のサポートが終了することがわかった。

iPadはイラスト作成で使用しているので必須。Macbookもデザインで使用するので必須。高価であるそれらを、いつ買い換えようかと思っていたタイミングでのサポート終了宣言だった。
以前3DCGを扱いたくて新しいソフトを導入しようにも、スペック不足で動作が不安定でスキル向上のきっかけを失った。
そんな不自由な中で仕事や制作をしていたので、環境として極限の状態というのは分かっていただきたい。

このように、自分に合わない機材は可能性を潰す
以前、テレビの番組でで海外でも活躍する著名なイラストレーターが出演していた。その方に密着したドキュメンタリーで「私がここまで来れたのは機材のおかげです」と、デスクいっぱいに広がっている機材を紹介していたのが印象に残っている。

私は予算の関係もあり、買い替え時を数ヶ月後にしようと思いなんとか現環境で制作しているが、スペックで使うソフトを妥協したり、無駄に時間がかかってしまったりなど、表現方法に制限があり大きな足枷があるように思う。

満足しない機材は、満足するクリエイティブを遠ざける大きな1つになる。

強く自分を突き動かす趣味がない

あなたの好きなものや趣味はなんだろうか?

イラストから離れて、スポーツ観戦でもアニメでも旅行でもアーティストでも、「これがあれば仕事も頑張れる、元気を貰える」というものはあるだろうか。

私も以前はあった。なんなら多趣味の方だったと思う。
それでも今では「私が本当に好きなものってなんだっけ」と悩む程にもなってしまった。実際大好きだった物も熱を失ったように存在が薄らいでいる。

自分の生活に欠かせないと思ったり、熱中して時間を忘れてしまうような心から好きと思える熱いもの。それがクリエイティブの熱量に繋がると感じている。

イラストももちろんだが、クリエイティブは衝動性の一面もあると思っている。

突き動かされるような、そんな欲がないと完成まで持久力がもたない。それほど、長時間集中力が必要で労力を必要とする物がクリエイティブだと思う。

誰もが、「承認欲求」「自己実現欲求」のようなものを目的に制作しているのではない。
もっと野生的な「食べたい」「寝たい」の並びに来るのが「作りたい(クリエイティブ)」だと思う
上記で好きなものや趣味の話をしたが、衝動の意味である「目的を意識せず、ただ何らかの行動をしようとする心の動き。」を繰り返していくことは、フットワークの軽さには繋がっていくと思う。

フットワークが軽いと、やりたい趣味も出来るしクリエイティブもできる。
足取りの一歩が重いと、なかなか趣味や好きなことに手をつけられない。

自身の話をすると、イラスト制作から離れている私は、好きなことや趣味からも離れており1つ1つの行動の足取りが重い。
趣味から離れることは、クリエイティブから離れることに近い。なぜなら、「それを欲してそれを行う」ちからが弱まっているから、なんとなく自発的な行動もできずに流れるように時間を消費してしまう。

人と比べてしまう

今まで書いてきたことのように、クリエイティブはどうしても日頃の精神状態に大きく関わってくる。

その中で筆を置くきっかけに十分になり得るのが、周囲との比較だ。
世にはとんでもない秀才と呼ばれるクリエイターもいるし、今日作ることを始めたクリエイターの卵もいるし、物作りに無縁だと自称する人もいる。
上を見ればキリがないし下を見てもキリがないのだが、自分の立ち位置は相対的にしか測れないのは本当に難しい問題だと思う。

しかも、ある程度年齢を重ねると「ものを見る目」というのが肥えてきて、日常に出回っている制作物の良し悪しは判断できるようになってしまう。
フリー画像をかき集めて適したフォントを扱っていないような、いわゆる「ダサい掲示物」を嘲笑する文章を見たことはないだろうか。

しかしクリエイターとして、良いものとの比較はできても、自身のスキルと比べた時にそれ以上のことができるだろうかという話になる。
そういった時、「世間で良いとされているもの」と自身とのギャップに苦しみ、「こんなに頑張っているのに」と意欲に影響してくる。いいね数をはじめとしたインプレッションも、他者からの評価そのもののような気分になり、無力感にさいなまされる

私はイラストやデザインのディレクション経験から、パースやレイアウト、色彩感覚をある程度持っている。
しかし、自身で作成するとそれらの知識に比例しない。努力の足りなさを自覚しつつ「良し悪しが分かっているのに、どうして良く作れないのか」と責め、挽回するための努力に繋げられない程やる気を無くしてしまう。

周囲との比較によって自身の立ち位置は測れるが、モチベーションは過去の自分との比較が健康的だと思う。

それがなくても生活できている

上記で「食べたい」「寝たい」の並びに来るのが「作りたい」と言ったが、実は「作りたい」の欲は様々な方法で満たすことができてしまう。

もちろん仕事としてクリエイティビティを必要とするなれば話は別だ。
しかし、「これが無かったら生きていけない」という物に限って、無くてもなんとかなってしまう。

ちなみに私の場合は、過去「イラストを描かないと精神状態が整わない」と思うほどに重要視し、寝る間を惜しんでイラストを描いていた。
今では、環境が穏やかで描かずとも安定した精神状態で生活している。いつの間にか「イラストを描かないと精神状態が整わない」と思っていた自分はどこかに消え去ってしまった。

クリエイティブは環境とメンタルにあまりにも密接なものだ。

実際に、当時に比べれば自主制作も激減。描くとしても仕事関係のみでスキルの向上に時間を作れていない。
イラスト作成の時の心を解きほぐすような心地よさだったり、今すぐ机に向かいたい程の熱い衝動を欲していたのに、満たされた生活ではイラストを自主的に描くことがほぼ無くなった。

「イラストは好きだったが社会人になり時間が作れなくなる」といった話はよく聞くが、社会人でも寝る間を惜しんで描いているという話も同時に聞く。
前者は社会人という新たな環境となり、イラストの欲求を他で満たすことが出来たのではと思う。その人にはイラストの代替えはあったのだ。

環境次第で欲が生まれる。ハングリーさと言ってもいいかもしれない。やりたい事をやれる環境を選んで飛び込めたら、周りに流されずやりたい事をやれるように思う。
自戒を込めて。

最後に

自身が持つ違和感を7項目書いてきたが、それぞれが要因として組み合わさってゆき、私は悪循環となっているのだろう。
表面化できるこれらの話以上に、色々な環境や意識が組み合わさってスランプとも言えるような、このような無力感があるのだなと客観的に思える。

綺麗事のようだが、これを読んでくださった誰もが今後筆を置かないでほしいと私は思う。
1人として同じものを作れる人はいないし、様々な挫折や経験がそのまま表現方法となって、今までにない制作物が出来上がる可能性を秘めているから。

挫折は人生経験にはなるが、癖になると「諦めグセ」に繋がるということもある。

私も、直近の選択次第でイラストレーターを一生名乗ることはないだろう、という境地に立ちながらも、クリエイターとして諦めきれず今回noteを書いている。

悩まず続けることに越したことはない。けれど、続けたくも続けられない理由が明確でなかったり、やりたいことに苦しさをおぼえるようになったら、一度立ち止まってみるのはいかがだろうか。

それが一生続けられるか、途中で転換して違う形で進むことになるかは今の時点では誰にも分からないけれど、その努力が、熱中があなたの糧となって生涯支えてくれるように祈っています。

一緒に進んでいきましょう!

2023/06/21




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