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言葉集め

小さい頃、親に言われた悲しい一言とか。
中学校の先生が言っていた感情的な言葉とか。
恩師がくれたお守りのような言葉とか。
本のタイトルとか。

ふとした瞬間に、誰か からもらった言葉を拾い集めて、今の自分の意思や価値感があるのかもしれない。

自分が自分に納得していない時は、
特にその「言葉集め」を悪い方で過剰にしている。

放つ言葉が、どれだけプラスの言葉であっても、
自分の言葉ではないから、何だか自分でも説得力もなく、腑に落ちない。
確かに同じ事を思っているはずなんだけど、自分から湧き出るエネルギーではなく、他人から借りているエネルギーを他人に良く見せようとしているみたいな。

他人に買ってもらった物を、自慢するみたいな。

そうじゃなくて、自分の言葉がほしい。
言葉はヒトを傷つける。自分を傷つける。
大切な人を傷つけた自分の言葉を放つ事に恐れているのか、悲しい感情になってしまいたくないと逃げているのか、

言葉を放てば、後悔してしまうんではないか、
人を傷つけてしまうのではないか、

そんな、自分に対する苛立ちや後悔を、
綺麗事みたいな言葉にして、
言葉を放たない理由を探している。

だから、自分の 言葉 を放つ人に憧れや嫉妬をしている。
その言葉の輝きにとてつもなく嫉妬心を抱く。

それも、その人は強くて、私は弱い。というエゴだ。その裏返しだ。

ここ 毎日、必死に どうか前進出来るための「言葉集め」をする。

それでもなかなか うまく 自分の 言葉が見つからない。

想っていないと、出てこない。
出てきても、想えていないと、どこか寂しい。
言葉を放つことに、恐れている。
でありながら、羨んでいる。

最近、地元の友達にこんな言葉を言われた。
「菜々子はいつも強くてまっすぐな言葉を綴る」

彼女には、私はどう見えているんだろう。

彼女にとっては、"強くてかっこいい友人"なのだろうか。

「そんな、かっこいい人なんかじゃないよ。」の裏に、「本当にそうあっていたい。」という気持ちがふつふつと湧き上がった。

「この人の言葉、好きだな。」と思われる人になれるのか。

なるしかないのか。なってやるか。
なってやろう。


言葉を放つことで失ってしまうものがあったとしても、
それ以上に言葉を放つことで 誰かの心を動かすことができる瞬間があれば
今 言葉に怯えて 言葉から逃げて 言葉と向き合って 言葉に救われる 意味があるのかもしれない。

どんな絶望を抱く日があったって
私は この言葉 に心を動かされ 魂を震わせてきた。

自分を救うのも かき集めた言葉ではなく
自分の内側から、自分の心の奥から 出てきた言葉だって


きっと、本当は気付いていた。

だから私は、これからも、言葉 を放ち、言葉で傷つき、言葉に救われ、言葉に生かされるだろう。


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