音楽と香水

音楽が部屋に満ちていく。それは、まるで目に見えない色彩が空間を染め上げていくかのようだ。私は静かに目を閉じ、その変容を感じ取る。

アパートの窓から差し込む柔らかな午後の光が、Brian Enoの「Ambient 1: Music for Airports」と溶け合い、新たな風景を生み出している。この曲を聴くたびに、私の小さな居住空間は無限に広がるように感じる。

ふと、香水の小瓶が目に入る。そうだ、音楽は香水に似ている。一瞬のスプレーで、そこにある空気が一変する。今、私の周りで起こっていることも、本質的には同じだ。音の波が空気を震わせ、知覚可能な何かへと変化させている。

私はソファに深く身を沈め、目を閉じたまま、音の海に身を委ねる。頭の中で、「コンロ振ってしまいよ」という言葉が浮かぶ。そう、音楽を流すことは、まさにそんな感覚だ。一瞬にして、私はどこにでも行ける。

London の喧騒も、アパートの壁も、全てが溶けていく。私の意識は、音の波に乗って漂い始める。それは Notting Hill の街並みを越え、Thames 川の流れに沿って進んでいく。大英博物館の静寂の中へ。St. Paul's Cathedral の荘厳な空間へ。

そして気がつけば、私の意識は遥か彼方、故郷の日本へと飛んでいる。懐かしい風景が、音楽と共に鮮明に蘇ってくる。祖母が教えてくれた禅の教え、幼い頃に遊んだ裏山、初めて触れた英語の響き。

しかし、それらは決して固定的なイメージではない。音の波が押し寄せるたびに、記憶は新たな色を帯び、形を変える。まるで、量子の世界のように、観測するたびに状態が変化していくかのようだ。

私は、この不思議な体験に身を任せる。音楽が作り出すイリュージョンの中で、現実と幻想の境界線が曖昧になっていく。それは恐ろしいことではなく、むしろ解放的だ。

ここで、私は自分自身の存在すら、一つの音符のように感じ始める。宇宙という大きな交響曲の中の、小さくも欠かせない一音として。

そして、音楽が静かに終わりを告げる。私はゆっくりと目を開け、周囲を見渡す。部屋は確かに元の姿に戻っている。しかし、何かが違う。空気が、光が、そして私自身が、微妙に、しかし確実に変容している。

音楽は去っても、その余韻は私の中に残り続ける。それは、目に見えない色彩となって、私の内なる風景を永遠に塗り替えていくのだ。

Atogaki

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はじめまして、Ichiです。ロンドンを拠点に活動するフリーランスのライターです。日常の小さな発見や、文化の狭間で感じる思いを言葉にすること…

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