お酒の飲み方にテコの原理を

夕刻6時半、ノッティングヒルの街路樹が風に揺れる。「The Queen's Fox」に足を踏み入れる瞬間、いつもの罪悪感が胸をかすめた。本当はまっすぐ帰って、積み上げた仕事を片付けるべきなのに。しかし、パブの扉を開ける私の手は、不思議と躊躇わない。

「いつもの?」とオリバーが声をかける。私は小さくうなずき、カウンター奥の静かなコーナー席に腰を下ろした。仕事用のバッグから取り出した手帳を広げ、今日の未完了タスクを眺める。目に入る赤字の締め切り。胃が小さく痙攣する。

ウイスキーグラスが差し出される。琥珀色の液体に、灯りが優しく映り込んでいる。Talisker 10年。ほのかに海を思わせる香りが、鼻をくすぐる。一口含めば、スモーキーでスパイシーな味わいが口中に広がる。喉を通る温かさとともに、緊張がほぐれていくのを感じる。

効率。その言葉が頭をよぎる。タバコは数年前に辞めた。でも、このウイスキーは手放せない。体に良くないのは分かっている。だが、この一杯がもたらす心の安らぎ。アイデアの閃き。人々との会話の潤滑油。これらの価値は、単純な健康上のリスクでは測れない。

隣のテーブルで、若いカップルが楽しそうに会話している。彼らの笑い声に、ふと胸が締め付けられる。両親からの結婚の催促。婚活アプリの未読通知。重なる想いに、もう一口ウイスキーを流し込む。

手帳に目を戻す。今週の目標達成率は80%。悪くない数字だ。でも、あと少し頑張れば90%に届いたかもしれない。そう考えると、今この瞬間にパブにいることへの後ろめたさが再び顔を出す。

しかし、別の声も聞こえてくる。人生は数字だけでは測れない。100%の効率を目指して、本当に大切なものを見失ってはいないだろうか。このウイスキー。この空間。この時間。全てが、私という人間を形作る大切な要素なのではないか。

グラスを傾ける。残り半分になったウイスキーが、グラスの縁で揺れる。その動きに、私の心が共鳴する。効率を追求しすぎて、人生の味わいを失うことはない。かといって、快楽に溺れて自制を失うこともない。その絶妙なバランスを保つこと。それこそが、本当の意味での「効率的な生き方」なのかもしれない。

ふと、隣に置いた携帯電話が震える。上司からのメール。明日の会議資料の確認だ。一瞬、焦りが込み上げる。しかし、深呼吸して意識を整える。今この瞬間は、ウイスキーを味わう時間。仕事のことは、家に帰ってから考えよう。

最後の一口を味わいながら、明日への決意を固める。今日のこの一杯を、明日のより良い仕事へとつなげる。そう、全ては繋がっている。無駄なものなど、何一つないのだ。

グラスを置き、財布を取り出す。「お会計を」と声をかけると、オリバーが親しげに微笑む。彼との何気ない会話が、また新たな気づきをもたらすかもしれない。人生とは、そういう予測不可能な出会いの連続なのだから。

パブを出て、冷たい夜風に頬を撫でられる。空を見上げれば、微かな星の瞬き。ロンドンの喧騒の中に、静かな宇宙の鼓動を感じる。

明日はまた、新たな挑戦が待っている。今宵のウイスキーが、その挑戦への英気を養ってくれたことを確信しながら、私は家路につく。効率と人間性。相反するようで、実は表裏一体のこの二つの概念。その調和のとれた生き方を、これからも模索し続けよう。

それが、この複雑な現代を生きる私たちの、しなやかな叡智というものなのかもしれない。

Atogaki

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