忙殺2

目覚めの瞬間、意識が現実に引き戻される。窓から差し込む光は、いつもより明るい。時計を見る。7時32分。「しまった」という焦りと「もういいか」という諦めが、同時に胸の中でせめぎ合う。

ゆっくりと体を起こす。筋肉の疲労が、昨夜までの激務を静かに物語っている。深呼吸をすると、かすかに埃っぽい空気が肺に入り込む。「掃除、いつやったっけ」と思いながら、カーテンを開ける。

アーンドル・スクエアの緑が、朝の柔らかな光に包まれている。ベンチに腰掛けた老紳士が新聞を読んでいる。彼の穏やかな表情に、どこか羨望を感じる。「あんな風に、朝のひとときを楽しめたらな」

シャワーを浴びながら、頭の中で今日のスケジュールを整理する。会議、締め切り、クライアントとの打ち合わせ。そして夜は...。突如、Aliceとの約束が脳裏をよぎる。「The Queen's Fox」で一杯どうかと誘われていたのだ。

「ああ、すっかり忘れてた」

慌ててスマートフォンを手に取る。「申し訳ない、今日は厳しそうだ。仕事が...」と打ち始めるが、途中で指が止まる。これで何度目のキャンセルだろう。罪悪感と後悔が押し寄せてくる。

鏡に向かい、自分の顔をじっと見つめる。目の下のクマ、少し伸びた髭、疲れの色が濃い瞳。そこに映る男は、本当に自分なのだろうか。

「これでいいのか?」

その問いが、心の奥底から湧き上がってくる。忙しさに紛れて見失っていた何かが、今、鏡の中の自分を通して語りかけてくるようだ。仕事の締め切り、クライアントからの要求、끊임없く届くメール。それらが自分を定義するものなのか、それとも...。

深く息を吐き出し、もう一度メッセージを見る。送信ボタンは押されていない。削除して、新しく打ち始める。

「今夜、必ず行くよ。楽しみにしている」

送信ボタンを押す。その瞬間、胸の中で何かが動いた気がした。不安と期待が入り混じる奇妙な感覚。

急いで服を着て外に出る。いつもより遅い出勤だが、不思議と焦りは感じない。むしろ、久しぶりに街の空気を肌で感じている自分に気づく。

ポートベロー・ロードを歩く。朝の喧騒が徐々に大きくなっていく。八百屋が店先に野菜を並べ始め、カフェからはエスプレッソの香りが漂ってくる。普段なら気にも留めない日常の風景が、今日は妙に鮮やかに感じられる。

ふと足を止める。古書店「Portobello Books」の前だ。ショーウィンドウに並ぶ本の背表紙を眺めていると、一冊の本が目に留まった。村上春樹の「海辺のカフカ」英訳版。Aliceが読んでいた本だ。

躊躇なく店に入り、その本を手に取る。ページをめくると、懐かしい言葉たちが目に飛び込んでくる。「人は誰でも、正しい選択ができると信じたがるものだ」というフレーズに、どこか自分を見る気がした。

「これください」

レジで支払いを済ませ、本を抱えて外に出る。遅刻は確実だが、どこか心が晴れやかになっていた。

仕事は忙しい。でも、それだけが人生じゃない。この当たり前の事実に、今更ながら気づかされる。

今夜、Aliceに会ったら、この本のことを話そう。そして、最近の自分のことも。抱え込んでいた思いを、少しずつでも言葉にしてみよう。

ノッティングヒル・ゲート駅に向かいながら、久しぶりに空を見上げた。雲一つない青空が広がっている。その青さに、何か希望のようなものを感じる。

「変われるかもしれない」

そう思った瞬間、駅の階段を駆け上がる自分がいた。​​​​​​​​​​​​​​​​

Atogaki

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はじめまして、Ichiです。ロンドンを拠点に活動するフリーランスのライターです。日常の小さな発見や、文化の狭間で感じる思いを言葉にすること…

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