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3ヶ月ぶりの再会なのにネガティブが爆発してた

昨日は3ヶ月ぶりくらいに好きな人に会い、東京の街をぶらぶらお散歩した。いい天気で、いい日だった。けど、そう思えたのも夕方くらいまでだった。

原因はよくわからないのだけど、お昼過ぎから少し頭痛があった。「まあ、夕食までには治るでしょう」と思ってたら、夕食までに治るどころか悪化した。夜になって頭痛薬を飲むも、タイミングが遅かったせいか効かなくて、そのままに予約していたレストランへと向かうことに。そして、その結果メンタルがしんだ。

せっかく予約までして楽しみにしてたレストランだったのに、体調悪いわたしは全然食べられないし、黙りこくるしで、なんだか別れ間際のカップルみたいだった。はたから見たら、喧嘩中もしくは超絶不仲にも見えたかもしれない。

出てくる料理はどれも美味しかった。でも、頭痛いせいで心から楽しめずにかなしかった。目の前に座る彼を見つめながら「楽しめなくして、台無しにしてごめん」の気持ちでいっぱいになる。具合悪いせいか、かなしさゆえかわからないけど涙目にもなってきて、少し泣いた。

自分はほんの数品だけ料理を食べ、彼にはピザを3/4くらい食べさせ、1時間弱でお店を後にした。

帰り道、「今日は予約キャンセルしてまた別の機会に行けばよかったね」みたいな話をしながらどんどん悲しく、申し訳なくなる。3ヶ月ぶりの再会だったのに。普段は行かないようなちょっといいお店だったのに。半べそで謝りながら大人とは思えないぐずり方をして彼を少し困らせた。


わたしは自分が原因で物事が思うようにいかないとき、理想と現実のギャップを嘆いてダメモードになってしまうことがある。

この「ダメモード」なときの自分というのは、認知の歪みが爆発してしてるようなイメージ。自分が大事にしてることが、ゼロかヒャクでしか測れなくなる。そして理想のヒャクに届かないときには「もうダメだ!!」とか下手すると「生きる価値ない!!」くらいの感じになってしまうのだ。

それからいろんな物事をネガティブに捉え始め、負のループに入る。そして、これはもう認知が歪んでるわ、ということに後になって気づく。

冷静に思い返せば、別に何かひとつが上手くいかなくても、理想通りにいかなくても、それで生きる価値なくなるわけないって思える。でも一旦そのモードに入ってしまうと、そのときばかりはしばらく抜け出せない。

昨日の夜は、まさにこれだった。体調悪かったのもあってあんまり覚えてない(というか記憶から抹消しようとしてる)けど、最終的には「出会う前からやり直したい」とか意味不明でキモイこと言ってた記憶はあるので、自分でも面倒くさい人間だという自覚はある。


関連して、これまであまり意識してこなかったのだけど、自分は理想ばかり高いことに気づいた。昨日のディナーの件も同じで、理想的な「こうでありたいな」「こうだったらいいのに」からかけ離れてしまうと、なかなか納得できない。

他人に求める理想が高いかといえば違う気がするけど、少なくとも「自分がこうありたい」はけっこう強くて「まあ、いいか!」とか「しょうがない」と思えないところがある。これまた面倒くさい……。

理想に近づこう努力し続ける人生といえばちょっとカッコイイけど、違う視点で見れば、理想とのギャップに苦しみ続ける人生でもあるし、なんだかなあ。

しかも自分にあるのは志ばかりで、理想に至るまでの目標設定とそれをクリアしていく過程はぶっ飛ばしちゃうし、うまくいかなかったときには対処できないし、ネガティブ爆発させちゃうし。ある程度は自分の性だと諦めるにしても、もう少し、どうにかならないものだろうか。

そういえば、文章を書くことは認知の歪みを正すのにいいと聞いたことがある。たしかに文章にすると自分から主観を切り離して眺められるし、感情と出来事を分けられる感覚があるから、日記とかnoteはそういう面でも助けてくれる気がする。ぐるぐる考えながら書いてたら、「書く」を続ける理由がまたひとつ増えた。


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