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父とお蕎麦とスウェットとお葬式の話

父がまだ生きてる夢を見た。一時期の断酒してるタイミングの夢で、お酒飲んでない設定なはずなのに「お前ら(わたしと妹)が俺の面倒を見るんだぞ」と何度も聞いた嫌味を言われた。それでもお酒飲んでない父と普通に会話できることが嬉しくて、「お酒やめてたらねと」言った。続けて「わたしはずっと、もっとお父さんとこうして話したかったんだよ」と伝えたところで目が覚めた。起きたら泣いてた。

もう会えないのになんて夢をと思ったし、そういう本音さえ二度と伝えられないことが悲しかった。「生まれ変わって、また全然違う人間や生き物になってるかもしれないけど、また親子をやりたい」という妹の言葉を思い出した。愛されてたね、と思う。



お葬式はコロナ禍という問題以前に、父が「家族だけで誰も呼ばなくていい」と強く言っていたから、家族葬だった。わたしが写ルンですで撮ってた父の写真が、遺影になった。2018年の夏、海が見える病院のすぐ近くで、海を背景に撮った写真。入院中でお酒飲んでないときだから、穏やかな顔してた。同じ日に病院の近くで撮った海の写真は、現像して自分の部屋に置いてあった。今になって、わたしなりに大切したかったのかなと思ったりする。

電車を乗り継いで病院まで会いに行ったその日はいい天気で、お互いイライラすることもあったけど、話せてよかった。母も一緒で、「お父さんがしんじゃったらこれを遺影にしてあげる」と話してたら、結構本気で「そういうこと言うな」と言われた。父はお酒をやめられないけれど、かといって死にたいわけではなく、生きる気満々だった。

棺には、実家に残ってたたばこ、幼稚園とか小学生の頃に父に宛てて書いた「お父さんいつもありがとう」みたいな手紙、今父に対して思うことを素直に書いた手紙、いくつか思い入れのあるモノと、ブラウンのスウェットなんかを入れた。それは2年くらい前に退院日の着替えとしてあげたスウェットで、知らないうちにクタクタになっていた。

去年はコロナの心配もあって実家にはほとんど帰らなかったから、全然会えてなかったけれど、その後悔はなかった。酔ってる父は父であって父じゃないから「もっと話したかった」とは思うのだけれど、「生きてくれてれば」とは少し違う気がしてしまう。会えてはいなかったけど、去年の入院中に少し電話で話したのを覚えていて、なんてことない会話ができて嬉しかった。わたしは実家に帰れば会える父じゃなくて、お酒を飲んでない、アルコール依存症という病気から回復した父に会いたかった。

会ってなかったこと以外でも、心残りは間違いなくあった。わたしが元旦に送ったLINEのメッセージは永遠に既読がつかないし、以前「書いた記事を送って」と言われて送ったWeb記事の感想も聞きそびれた。その病気の回復のために、もっと自分にできたことがあったかも、早く気づいていたら違ったかもと何度も思ったし、いまだに思ったりもする。

父が亡くなった知らせを受けた日、実家に向かう電車のなかで、『歩いても 歩いても』という映画に出てくる「いつもちょっとだけ間に合わないんだ」という言葉を思い出していた。本当にそうなんだなと、しみじみ思った。



父は病気になる前、家の外では人の顔色を伺っていい顔をするというか、そんなに面白いタイプでもないのに頑張って盛り上げようと空回りしちゃうようなところがあったと思う。よくいう「飲まなければいい人」。それでも、変に下手に出るような感じが好きじゃなくて、子ども心に「父を誰かと会わせるのは恥ずかしい」とい思っていた。だから、自分から誰かを父に会わせたことはないに等しかった。それでも、今のパートナーには、父と会ってもらったことが1度だけある。2018年の秋。

「お付き合いさせていただいてます」みたいなご挨拶をしにいったとかでは、全くない。お酒が原因で入退院を繰り返していた父が退院する日に、彼に車を出してもらい病院から実家まで送ってもらったのだった。

彼と父の初対面は相部屋の病室で、彼が名前を名乗って、父が「あかねの父です。いやぁ、わざわざすみません」みたいに言うから、彼の前では気遣いできるんだなとそのときは思った。

病院の前にユニクロに寄って買ってきた2種類の着替えを渡して、「お父さんが普段着ない感じのトレーナー買った。これ可愛くない?こっちが嫌だったら、普段よく着てる感じのグレーっぽいのもあるよ」とわたしが説明し始めると、なぜか父は入院費だか預金だかお金話をしたがって、会話が全く噛み合わなかった。

父と接してるときの母と自分が重なって、複雑な気分になった。再度、「可愛くない?」と胸ポケットや肘当てがちょっぴり個性的なブラウンのトレーナーを見せつけて「可愛い」と言わせたりした。

その後、父は彼に向かって「どっかコンビニ寄ってもらえますかね?タバコ吸いたくて」と腰低めなトーンで平然と図々しいお願いをしだした。父が気遣いできるの時間なんて一瞬だった。彼は「全然大丈夫ですよ」と答えてくれたけれど、わたしは娘のパートナーに対しても平気でそんな物言いをするのが信じられなかったし、腹が立った。


退院手続きした後は、彼の優しさでコンビニに寄った。コンビニの前で待っていると、お金を下ろした父が、喫煙スペースでぷかぷかタバコを吸っているのが見えて、その姿がさらにわたしを腹立たせた。人に何かをしてもらうことが当然になりすぎて、感謝という概念を忘れてるような感じ。車に戻ってからは、父に「彼に感謝してよ」と繰り返し言った。

ふとお酒の話になったとき、父は、自分は暴力は振るってないとか、そこまでのことはしてないといった類のことを言っていて、結局認識は変わってないんだなと悲しくなった。暴力はほとんどなかったけれど、家族に対して突然怒鳴るとかモラハラまがいの発言とか、嫌がらせは毎日だったじゃん、と心の中で思った。それを少しだけ柔らかい言葉にして言い返したけど、本人は腑に落ちてない様子だった。

そういう人と同じ家で暮らすことがどれほど精神的に苦痛だったのか、それだけのことを自分がやってきたこと、それを引き起こしているのがお酒の問題だったということ。父はいまだにちゃんと向き合えてなかった。個人的に、断酒を続けられている人は、自分やお酒の問題、その他自身が抱えている問題ときちんと向き合って言語化できている気がしていて、そういう意味で父はもう一歩届かなかったんじゃないかと勝手に思っている。

コンビニを出た後はちょうどお昼どきだったので、そのまま彼の運転で近所のお蕎麦屋さんに行った。初めて行くお店で、お蕎麦もだけど、白子の天ぷらがびっくりするほど美味しかった。父はお蕎麦好きって言ってたけど、あんまり大袈裟なリアクションはしない人だったから、黙々と食べてた。そのお蕎麦屋では、ここぞとばかりに父にお会計してもらった。


その日、心のどこかでは父から「娘をよろしく」みたいな、父親らしい発言が聞けるんじゃないかと期待していたのだけど、そんな言葉は全然出てこなかった。「彼氏を連れてくるなんて」と寂しがる様子もなくて、この人にとってわたしって何なんだろうとか、娘に全然興味ないんだなと思えて、少し悲しくなった。でも彼に実家の近くに車を停めてもらい、そこから父と二人で歩いていたときに「彼のことどう?」と聞いたら、「いい人だね」とお墨付きをもらった。「接し方がわかってきたな」とも言ってたけど、結局、父と彼が会ったのはそれきりだった。

ただその数ヶ月後、父とのLINEのやりとりで「あかねが書いた記事を送って下さい。〇〇くんはどうした?」と唐突な流れで彼について聞いてきて、ちゃんと名前覚えてたのが意外だった。

ここに書いたこと以外でも、退院の日には父があまりに自分本意で奔放な態度をとるものだから、こんなことに彼を付き合わせるんじゃなかったと後悔したし、恥ずかしくなった。それを謝ったとき、彼は気にするそぶりもなく「おもしろい人だね」と言ってくれた。彼は病名や精神的な病気のことで、父を軽蔑しないでくれた。

父が亡くなった後になって、彼に父と会ってもらってよかったなと、少しだけ思い直した。父のことを一緒に思い出したり、話したりできる人がいるのは、嬉しいことだなと思った。



お葬式の前日、妹と一緒に実家で棺に入れるものを選んでいたら、着古されてクタクタになった、例のブラウンのスウェットを見つけた。あの日の病室で、わたしが手渡したスウェット。伯母さんが、着るものに頓着しない父が着回しまくっていた2着のうちの1着だと教えてくれた。

わたしがあげたスウェットだからとか、そんな理由で着てくれてたのかは不明だけど、それでもやっぱり、いっぱい着てくれたのは嬉しくて泣けた。ただあの人のことだから、何も考えずに、洗濯してもらってそこにあるから着ていただけな気もしてる。

というのも、同じ日に渡したもう1着のグレーのフードつきスウェットは、1度も着られないまま放置してあったのだから。

お葬式の後に「これ、あなたがあげたやつじゃない?」とおばあちゃんが持ってきてくれて、ようやくもう1着あげたことを思い出した。タグはお店で切ってもらったから付いてなかったものの、スウェットの前面には、Sの文字が並ぶピロピロしたテープが貼り付いていた。

だからそのスウェットは、わたしの部屋着になった。なんだか父の形見みたいに受け取ったけれど、父が1度も着てないということは、結果的にわたしは自分で自分に買っているわけで。複雑な気持ちになったけど、なんか笑えた。




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