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きもちわるい好きとか

「友達と思ってた人に恋愛感情を持たれると、ちょっとなって」
「わかる。あたしなんてもっと酷くて、自分から好きになって近づくのに、相手に好きになられるとひいちゃうんだよね」
「恋愛してると心すり減るよね」

いつかの喫茶店で、後ろから聴こえてきた恋愛談議。ちょうど恋愛を描いた小説エッセイや映画にハマっていた頃で、その会話を聞きながら、自分は数ある感情のなかで、恋愛感情が一番好きかもしれないと気づいた。決して恋愛経験豊富とはいえない人生を送ってきた自分が何言ってるんだろうと思うと同時に、だからこそ憧れるのかとひとりで納得した。

少女漫画だとよくいう王道な恋愛ストーリーが描かれがちだけど、現実の恋愛って全然画一的じゃなくて、いろんな色や形があっていいな、と思う。幸せな恋愛もそうじゃない恋愛もあるし、告白とかしなくてもされなくても、誰にも知られない好きもあるし、言葉にしきれない感情の機微がわかりやすく、ときにわかりにくく存在してる。「心すり減るよね」って言いながらも好きになってしまう対人間ゆえのままならなさが、よくも悪くもその人らしさを引き出してしまう感じに惹かれる。


かくいうわたしの好きは大抵いつも気持ちわるくて、君に届くながすぎる。異性に対する好きもだけど、ときに同性が異性より異性で、相手に気づかれないよう、好きみたいな感覚で同性を見てる瞬間とか、うええって思う。決して同性を好きになることを否定してるわけじゃなく、相手に知られて引かれるのが怖いしそういう自分を知られたくないと思ってしまう。

自分は同性とも異性とも交われない場所にいるような気がしていて、その変なこじらせみたいなものを抱えたまま大人なってしまった。そのきっかけは、小中学生特有の女子のいざこざにあるのだけど、どう考えても引きずりすぎだから、もはや因果関係はない気もする。

こじれた意識は歳を重ねるうちに膨張して、女性はときに苦手で怖くて憧れで尊い存在になった。仕事など関係なく女性とご飯いくとなると、「なんでわたしとご飯いってくれるんだろう……」と困惑しつつ、よろこんだ。自意識過剰。うええ。

万が一女性と仲良くなれたなら、それはそれで恋愛対象になりうるんじゃないかという感覚もあって、でも別に付き合いたいとかじゃないし、たとえ彼氏いようが嫉妬もしないし、不思議な気持ちになったりもする。

それゆえ、好きな女の子と出かけたりすると、ちっぽけなことさえ特別な思い出にしたりして我ながら気持ちわるい。もらった手書きのカードはもちろんだし、居酒屋さんで食べたおにぎりとか、何気なく見せてくれた写真とか。似合うと思うよって言って選んでくれたリップも。わたしが女の子にリップを選んでもらえる日がくるなんて夢にも思わなかった。


同じ日、相手を知っているつもりが何もわかってないことを思い知らされた瞬間があった。ご飯屋さんで話しながら、知らない一面に驚いた。ミツメのエスパーという曲を思い出す。ときに知りすぎたつもりなのに、何もかもわからなくなる。そこそこ長く一緒にいたつもりでも、知らないわからないことが、まだまだある。当たり前なことだけど、はっとした。「人生は人を何も知らずに過ごすには長すぎるし、ちゃんと知るには短すぎる」だなとか考えた。

相手にも自分にもわからない部分があることは悲しくも愛おしくあって、複雑。知ることで見えてくる魅力もあるけれど、知らないところやどこまでも理解できない隠れた部分はその源泉でもあって、そこから魅力が放たれている気がするから、全部知ろうとはしないし、いつまでも知らない部分があるって思ってたい。

恋愛に限らず、昔は好きな人が勧めてくれた本を読んではその人に少し近づけた気がしていたけど、全くそんなことはなかった。好きなものを知って触れることと、その人の心に触れることは、必ずしも関係しない。でも、それでもいいのだと今は思って、いつかの好きな人が勧めてくれた本を読む。


少し前に「気持ちわるいんだけど」と前置きして大切なものや人への愛を存分に語ってくれた人がいて、その愛の深さに感銘を受けた。その人と自分は全然違うけど、彼女の好きの表現のおかげで、自分の気持ちわるい「好き」も悪くないものに思えた。

自分を客観視するのは難しくてなかなか認められないけれど、誰かの好きを通してなら自分の好きも認めてあげられるの、不思議だ。

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