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好きは広がる、でもファンではいられない

好きを仕事にすることの是非について、いろいろなところでよく目に耳にする。好きを仕事にすると人生が楽しくなるとか、むしろ好きなものを好きじゃなくなるとか。

その点、ライターという職業は、多かれ少なかれ「好き」を抱えて仕事をしている人が多い印象がある。「書くのが好きだからライターになった」とか、「このジャンルが好きだから、この人が好きだから取材したい」とか。

わたし自身、ライターと名乗って仕事するようになった理由としては、昔からそれなりに書くことが好きだったことが大きいように思う。つまり、好きを入り口にいまの仕事を始めたわけだけど、後悔は全くない。

ただこの仕事は不思議なもので、自分の「好き」を広げてくれることもあれば、純粋に「好き」でいることを阻んでくることもあると感じている。

好きを広げてくれるというのは、取材を通してたくさんの人やモノを好きになれるということ。

たとえば、わたしはそれまで一度も観たことがなかったプロレスというものを、プロレス選手への取材をきっかけに好きになれた。

最初は、プロレスのことなんて何も知らなかった。でも、プロレス好きな人に話を聞き、取材するプロレス選手の本や関連する本を読み、『有田と週刊プロレスと』を観て過ごすうち、どんどん好きになっていった。プロレスのことも、その選手のことも。取材を終えたときには、プロレスの試合の面白さ、そしてプロレス選手のカッコイイ姿やその生き様にすっかり魅了されていた。世界にはまだまだこんな素敵な人やものがあるんだと気づかせてもらえて、この仕事の醍醐味を味わえた気がした。

一方で、いまの仕事をしていると、純粋に好きでいること、つまり「いちファン」でいることがむずかしくなる場面もあるように思う。

たとえば、もし憧れの人に取材できることになったら。そこに連れていくのはファンの自分じゃなくて、仕事をするライターの自分だ。もしいちファンとして取材執筆してしまったら、きっと自己満足な記事になってしまう。

とはいえ、ファンになるくらい取材相手のことを好きになるのは大切だと思う。取材相手への興味関心や思いは、ファンの方に近いレベルまで引き上げたい。でも、これは仕事なのだ。ファンじゃない読者も後ろに背負った、いちライターとして向き合わなければ。そう考えると、純粋なファンのままではいられない。

それに何より、人に取材するということは、相手に自分をさらすことであり、自分という人間がバレることでもあると思うのだ。

憧れの人に、自分という人間がバレるということ。それはつまり、もし仕事で取材相手の人をガッカリさせたり失望させてしまったら、もう二度とその人には顔向けできなくなるということでもある。そのプレッシャーはえげつない。もしかしたら、いちファンでいた方が気はラクなのかもしれない。

でも、自分が大好きな人、もしくは事前取材をするなかで大好きになった人のことを記事にして伝えられるという喜びは何より大きくて、そのプレッシャーにも勝る。ときにしんどかったりつらい時間も多いけれど、やっぱりわたしはいまの仕事が好きだ。

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