見出し画像

書く理由を言葉にできるまでは

仕事は別として、こうしてnoteなどに文章を書く理由を、わたしはいまだ言語化できずにいる。

書きたいと思う理由はいくつか思い浮かぶし、書きながらぼんやりと感じることもあるのだけど、「これだ!」と言い切れるほどには掴めていない。

書きたい理由や思いを言葉にできたら、書けずに立ち止まったり迷子になったりしたときでも、それを指針に立ち返り前に進めるはず。だから「書く理由」を言葉にしたいという思いはある。でも、どうしてもできないのだ。

その理由は、書くテーマに対する思いや考えの量が関係しているように思う。

たとえば、ある出来事について書こうとするとき、それに対してある程度の思い、考え、感情を持っていなければ、書くことはできない。ただ「うれしかった」「かなしかった」だけでは手が止まるし、ボリュームのある文章は書けない。

逆にいえば、文章を書くには、ある一定のライン(書けるライン)を越えるまで、思いや考え、感情が溜まるまで待つ必要があるのだ。

それはコップに入れられた水のようで、水がコップから溢れるようなときには、比較的すらすらと書ける。でも、水がまだコップの1/3にも満たないような状態ではそうもいかない。自分のなかに蓄積されたものがなければ、出すものも出せない。

わたしにとっての「書く理由」は、コップの半分くらいまで溜まっている状態だ。だから、いまの状態でそれを言語化するには中途半端で、まだ早いと思ってしまう。それに言葉にすることで、言葉にできなかったことが切り捨てられてしまうのも嫌だなと思う。もう少し、まだコップに注がれていない分の水が溜まっていくのを待ちたい。

本当は、わたしはこれのために書くのだ、これだから書くのだとハッキリ言えたほうがカッコイイなと思う。それに、書くことの意義や目的を明確にできたほうがモチベーションも上がるし、人に届きやすく伝わりやすくもなるし。

でも、だからといって「書く理由や意義がなければ書いちゃダメ」なんてルールは、この世に存在しない。書く理由をうまく言葉にできないまま、書いてる人がいたっていいのだ。何かをするのに、必ずしも意味や意義や目的が先行しないこともある。

いつになるかわからないけど、いつかは、自分の心のなかで渦巻いている「書きたい」の理由をちゃんとnoteに記せたらいいなと思う。一生書けない可能性もあるけれど、それはそれでいい。今はもう少しだけ、目的とか理由のない文章を書いていよう。


スキやコメント、SNSでのシェアうれしいです。ありがとうございます。いただいたサポートは、本、映画、演劇、寄席など自分の好きなものに注ぎ込みます!