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超私的エモ解釈

今さらながら、「エモ」について考えている。心がきゅっとなったり、揺さぶられたり、情緒的で、古語でいう「あはれなり」のような感覚で使われる言葉。「エモい」という言葉を、わたしはそんな風に捉えている。

ただ、これよりもっと主観的に、超私的な解釈をしていいのなら、「エモ」は何度も思い出してしまうような、個人的な出来事や感情に宿るものだと思う。

「エモい」は、いまや多くの人がわかる共通の感覚みたく使われているけれど、わたしにとっての「エモ」はずっと、多くの人に開かれたものじゃなくて、自分のなかで大切にしておきたいと思う感情や思いだった。

だから、個人的なものだったはずの出来事や感情が、大勢の人にとっての「エモいね」になったとき、それはもうわたしにとっての「エモ」ではなくなっている。他の誰もわかんなくていいと思うほどに、自分だけのものだってぎゅっと抱きしめるようにしているものの尊さが、わたしはとても好きだ。


3〜4年前、「エモい」という言葉が世の中にぶわっと広がったとき、知り合いとこれはエモいか、エモくないか自分の見解を言い合う遊びをした。そのときは、切ない思い出が宿っていそうなもの、感傷的になり得そうなものは、だいたいエモいに分類された。

でも、いまはどんなものでもエモくなり得る気がしている。恋人と行ったスタバ、はたまた好きな人に連れられて行ったラーメン二郎。家族と行ったディズニーランド。日常だろうが非日常だろうが、そこに特別な感情や思い出さえあれば、その人にとってはきっとエモいものだ。

そう考えると、エモさは誰かが「物語」として何かを語るときにだけ存在していて、物語じゃなくただの「出来事」として語るときに、エモさが入り込む余地はない。恋人と行ったとか、好きな人が誘ってくれたとか、家族で行った最後の旅行だとか。エモを捻出しているとき、わたしは自分勝手に物事に意味づけをして、自分勝手な物語を作り上げている。そうやって、忘れないように大事に心にしまっている。


「エモい」という言葉は、心が動いたことを一言で簡単に伝えてくれる一方で、何かに焦がれるような気持ち」も「過去を懐かしむ気持ち」も「感動した気持ち」も「しみじみする美しさ」も、ひとつに括ってしまうところがある。自分が「エモい」という言葉をあまり使わないのは、そのせいだ。この言葉だけで完結させると、自分や誰かの感情の機微はやすりがけするみたく削り取られてしまう感覚がある。

もちろんこれは私的な解釈で正解じゃないし、「エモい」にもいろいろな捉え方や使い方があっていいし、それを否定する気は全くない。ただ、自分が思ったことや心から湧いてきた感情は「エモい」で片付けずに、できるだけ自分の言葉で表現したいなと思う。

うまく表現しきれないけど、確かなのは、わたしはみんなが言う「エモいね」よりも、エモいという言葉を使わず語られる、エモさを孕んだ物語が好きだということ。そこには「エモい」なんて一言では決して括れない、その人だけの思いや感情が宿っている。



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