社会の上澄みを飲む人たち

旅行というのは非日常を味わえる機会だ。それと同時に、日常では見えない他人の部分を浮き上がらせることがあると思う。

普段学校や職場で関わる人たちと、衣食住をともにすることは少ないから、起きてから寝るまで同じ時間を過ごすのは旅行か合宿くらいだ。


どの年代でも誰かと旅行に行くときに大事なのは、旅行のペースが同じことだと思う。観光地を数多く回りたいのか、その地域の人々の暮らしを体験したいのか、忙しい日常とは違うゆっくりした時の流れを楽しみたいのか。

それに加えて、学生同士の旅行で特に重要なのは金銭感覚だ。生まれた家が違えば、バイトへの注力度が違えば、はたまた旅行の重要度によっても、かけるお金はそれぞれだ。

だから、金銭感覚の違う人と行くと大変なことになる。特にあまりお金をかけない人の方が。

私はお金に糸目をつけない友達と旅行してこれを思った。それと同時に、その人が社会の上澄みを飲んでいる人だと気づいてしまった。


日本は豊かな国になったと言われる。たしかにハイファッションやブランド物を大学生でも買えるし、海外も友達同士で学生のうちから行けるのだから、そうなのだろう。ピンキリはあれど。

私の親の時代は、金持ちと貧乏の差がもっとはっきりしていたという。今でもすごくお金持ちで家柄の良い人もいるけれど、そうじゃなくてもリッチになれる方法が増えた。

少なくともそういう人たちが増えたのは、経済的には良いのかもしれないけど、社会の少数派や貧困が目立たなくなっていると思う。

金銭的に豊かな人の多くが住んでいるのは、ディズニーランドのような、夢しか見えない場所だ。(もちろんその中で夢を追うことが難しかったり、生きづらさはあると思う)

彼らがディズニーランドを作ったわけではないし、作った人の苦労を考えることはほぼない。彼らは虚像の理想の世界を楽しむ。そして、基本そこしかみない。

ディズニーに入れない人たちのことは目に入らないし、考えられないのだ。

私だってディズニーにいる時に、どこかにいる、お金がなくて来られない人に想いを馳せたりはしないだろう。

考えられないのが悪いといっているのではない。私が恐怖なのは、その人たちが、自分たちがディズニーに入れない人たちについて考えられない、考えたことがないという自覚がないことである。

一言で言うと、彼らは貧困などの社会問題について、教科書では読んだことがあり存在は知っている。でもリアルな意味では知らない。その体験もなければ、知り合いにそういう人もいないから、想像するということが難しいのだ。

そういう人たちはディズニーに行けるのが当たり前という体で話すし、アンバサダーホテルに泊まるのも当たり前、ディナーやお土産を好きなだけ買うのも当たり前といった具合に。(この例って現実的、というか生々しいかもしれない。でもこれって、当たり前なんだろうか)

もちろん自分がそれを想像できるやつなのか、と言われたらそんなに自信はないし、自分でも戒めなくてはいけないと思う。自己防護じゃなくて、これは自分へも問い続けていることなのだ。


技術の革新や核家族化、コミュニティがなくなっていくのと同時に、人間が冷血になっている気がしている。YouTube やSNSを見ている限り、そういった人が多数派になっているように見えるのも怖い。想像力のない、自己顕示欲がうようよしているプラットフォームにたまに見えてしまう。

もちろんそれらのアプリ自体は悪ではないんだけど、世界をより良くするために使うことはできないのでしょうか。

そういってしまうとテーマが壮大だけど、日常のハッピーや面白いことを共有して、幸せな気分になる人を増やすような使い方ができるようになりたいし、広まって欲しい。

私も自分のコンプレックスにいつまでも拘っていないで、日々当たり前に見えることに感謝して、周りになにかを与えられるような人になりたい。

変なところに落ち着いたけど、そう思った。

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