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視界。

人生で一番悶々としていた時期。私の場合は今のところ、中学生の時だ。
まあここ3年悶々としていた気もするけれど、中学の時の閉塞感は半端じゃなかった。

思春期とは不安定な時期である。足元グラグラもいいところ、って今なら振り返って感じられる。


あの時期のいじめっ子って、一番違いを意識してコンプレックスを持っていた子たちなのかもしれないと思える。私は気にしいで、違いをすごく意識していたけれど、それを抱え込むタイプだった。いじめっ子も私ももしかしたらどちらも気にしいで、行動が二極化しているだけなのかもしれない。


さっき井戸の底にいるみたいだったと言ったけれど、もしかしたらそれは細い尖塔で、壁を壊して崩してみたら私もいじめっ子も隣どうしの尖塔の底でぽつんと立っていただけだった。みたいな。

見た目、性格、違いなんて探せば探すほどある。あのぐちゃぐちゃした感情には、今でも説明がつかない。細かく分析するなんて至難の業な気がする。なのに、最近小中のことを思い出すことが増えた。あの頃と今の自分、同じ人間だけどかなりちがう。分かってもらえるだろうか。

井戸の底にいるような、見える空が本当に狭くて、抜け出せるかも分からない不安な状況だった。その井戸は中学校卒業と同時に泡と消え、高校は広い野原にいる感じであった。受験でそれぞれの山に登らなくてはいけなかったけれど、見晴らしがいいぶんかなり希望が持てた。


できることなら、違いに目を向けすぎることほどアホなことはない、と昔の私に教えたい。
どちらが偉いなんてことがないってことも。
違いなんて、見た目にしろ性格にしろ、生い立ちや環境まで、星の数ほどあるのだ。(もしかしたら星の数より多いかも、とか思ってしまう)
むしろ共通点に目を向けた方が人間楽になる。
なんで違うんだ!!って悶々と考え過ぎてはいけない。違うものは違う。そういうものなのだ。that’s how they are meant to beってやつ。

私は目立たないように、空気を読んで、存在感を消して生きていたからいじめられるということはなかった。少なくとも、いじられることはあったけど陰湿な感じじゃなかった。
傷きたくない、の一心だったのと、気にしいすぎたのでもう既に自分で勝手に傷ついていたのもあるかもしれない。

でもだからこそ、共通点を見つけられたら嬉しい。相手と同じ人間になりたい、ということではなくて、分かりあえることが嬉しいという意味で。大学に入ってから、よりそれを実感するようになった。


大きかったのはフランス人の留学生の友達だ。すごく話しやすくて、多分価値観が似ているんだと思う。彼女と話している時の心の距離感は、日本人の知り合いや表面上の付き合いな人よりよっぽど近かった。やっぱり、どこの国出身かはそんなに関係ないと思う。


フランス人は議論が好きだとか、中国人はうるさいとかアメリカ人はジャンクフードが好きだとか、そういうステレオタイプ(偏見みたいなもの)に当てはまらない人がいるっていうことを日本にいると実感しにくい。

でもやっぱりステレオタイプはステレオタイプに過ぎなくて、そういう傾向があるかもしれない、というレベルだと思う。


文化の違いって難しい話題だし、そんなの食べるなんて信じられない、とか、こんなお祭り頭おかしい、とか最初は思ってしまうことがあるかもしれない。でもそれはあくまでも習慣や歴史が生んだものに過ぎなくて、偏見という眼鏡を外せば、やっぱり皆同じ人間なのだ。そしてそう思えた時、私はすごく嬉しくなる。

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