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ちゃんと自分を疑ってたい。

今日もいい天気でした。

ありがとう地球。


最近、最近では全然ないのだけれど、音楽を聴いているのですが、音楽を聴いているときに、時間が進んでいるのがほんとうに理解できない。

音楽を聴いているとき自分の思考は完全にどっかの世界にぶっ飛んでいるのですが、そこから戻ってくると部屋の時計が完全に浦島太郎状態で本当に竜宮城。

ハァ?


私は夕日が好きで(嫌いな人を見たことないけど)、なにか創作的な何かをするときにここ2、3年は大体夕日を入れてしまっているのだが、冬は気づいたときにはもう日が沈んでいてちょっと悲しい。
本日の自我を得る頃にはもう外が暗くなっている。

歳を取るほど時間の進みが速くなるというが、最近は速いどころかなんか1日の間にタイムリープしすぎてて信じられなくなる。というか信じてない。本当にタイムリープしている。私はタイムリープをしている。


私は元来自己愛と自己否定が同時に高い人間なのだが、極端な自己否定は直そうともちゃんと自分のことを疑ってたいですね、と思う。
自分は正しいことを思ってると思うし、というかそれが正しいと思うから自分の意見になるわけだが、例えば年配の人と話すときに、その人が自分の意見を主張するのと同時にそれ以外の意見の否定を始めたら「ああこの人は自分の道を信じてきたばっかりに、自分を疑うことをやめたのね。この人の世界はそこで止まってるのね」と思ってしまう。
いやこれ書いてて思ったけど、もしかして逆なのかな。自分を疑う気持ちが残ってるから、その疑いを排除するために否定を始めるのかしら。
どっちにしろ。
自分を信じ切った瞬間にそれ以上自分の世界は広がらなくなるわけで、ともすると自分の世界の外側を無意識に傷つけ続けてしまうわけで。
自己否定よりも自己懐疑の心を持っていたいもんですな。
ちょっと最近そんなことを思うようなことがあったわけで。


話が二転三転しますが、10月に行った友達の結婚式の帰りにもらったブーケをどうするべきなのか分からず、とりあえずちょうど飲みきってたトマトジュースのペットボトルを裂いてこれは斬新なフラワーベースですよということにして部屋に置いたりベランダに出したりしていたのだが、

1週間仕事で家を空けてベランダに放置してしまって、しばらく経って思い出して見たらほとんど死んでしまっていた。
そして昨日、生きてた二本の一本がまた落ちて残り一本になりました。

なんかこういうのって、切り取られてるからどっちみち長くは持たないんだけど、私がしばらくほっといたのも事実で、そうするとこの花は自然死なのか、私が殺したのか…

人間も、結局どこからどこまでが自然死なのか。
刺激を与えすぎても死ぬし、与えなさすぎても死ぬし、結局、生き物の寿命というのは、気候とか、他者とか、食べ物とか、そういう外部環境と関わり合って寿命を伸ばし合い縮め合いしながら、ひとつひとつの要因がちょっとずつすぎて一意に定められないものを自然死と呼ぶんですかね。

長く生きることがいいことなのかは分からないけど、なるべく、寿命を伸ばしあって生きていきたいですね。人々。に限らず。

ティッシュとティッシュの間には先に押し花にしてたやつが挟まってます

せっかくだしお花で何か作りたいな〜と思って取っといているのだが、またしばらく放置になりそう。ごめん。


フーン。
今日はせっかくのお休みだしこんなところで。

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