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アグニの神(原作:芥川龍之介)

作:井川いずみ 


登場人物:

遠藤              書生。妙子を探している

妙子 (恵蓮(えれん))    行方不明になった香港の日本領事の娘

婆さん             印度人。人攫いで悪徳

客               亜米利加人の商人


場所:支那の上海のある町にある、昼でも薄暗いある家の二階。時に、その家の窓の下

参考図書:青空文庫・芥川龍之介 著「アグニの神」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/15_14583.html

<お金儲けの為に>

  舞台には、片側に粗末な机、中央に粗末な椅子。
  机側には隣室へ向かう戸口が、反対側には玄関の戸がある。少し玄関前
  も見える。
  また、椅子の奥に通りが見える窓がある。

  婆さんと客がいる。

婆さん   何の御用で?突然入って来ては困りますえ
客     実は今度もおばあさんに、占いを頼みに来たのだがね
婆さん   ……
客     どうだい?
婆さん   占いですか?占いは当分見ないことにしましたよ
客     それはどうして?
婆さん   この頃はせっかく見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、
      多くなってきましたからね
客     そりゃもちろん御礼するよ

  客は小切手を一枚、婆さんの前に投げる。

客     差当りこれだけ取って置くさ。
婆さん   (小切手を拾い、確認する)
客     もしおばあさんの占いが当たれば、その時は別に御礼をするか
      ら
婆さん   三百ドル……こんなに沢山頂いては、反って気の毒ですね
客     構わないさ
婆さん   そうして一体またあなたは、何を占ってくれろとおっしゃるん
      です?
客     私が見て貰いたいのは、……(煙草をくわえ)一体日米戦争は
      いつあるのかということなんだ
婆さん   戦争、ですかえ……
客     そうさ。それさえちゃんとわかっていれば、我々商人はたちま
      ちの内に、大金儲けが出来るからね
婆さん   ……
客     お互い、金には困らなくなるよ
婆さん   じゃ明日いらっしゃい。それまでに占って置いて上げますから
客     そうか。じゃ間違いのないように
婆さん   私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ
客     噂では、魔法を使うそうじゃないか?
婆さん   そんな噂。それよりももっとすごいえ
客     大層な自信だな
婆さん   何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですから
      ね
客     ほー……それはそれは。では、明日同じ時間に

  客、帰る。

  間

婆さん   恵蓮(えれん)、恵蓮

  妙子、戸口から箒を持って現れる。

婆さん   何を愚図愚図してるんだえ?ほんとうにお前くらい、ずうずう
      しい女はありゃしないよ
妙子    すみません……
婆さん   きっとまた台所で居眠りか何かしていたんだろう?
妙子    ……
婆さん   何だ?
妙子    ……
婆さん   ぼさっと突っ立ってるんじゃないよ
妙子    でも……
婆さん   でもなんてありゃしない。ここは私の家だよ。お前は置いても
      らってるんだ
妙子    ……
婆さん   呼ばれたら、来る
妙子    ……
婆さん   わかったか
妙子    はい……
婆さん   なら好い
妙子    ……
婆さん   よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立て
      るんだからね、そのつもりでいるんだよ
妙子    今夜ですか?
婆さん   今夜の十二時。好いかえ?忘れちゃいけないよ
妙子    ……
婆さん   またお前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度
      こそお前の命はないよ(妙子から離れ、机に向かう)
妙子    !
婆さん   お前なんぞ殺そうと思えば、ひよっこの頸を絞めるより……
妙子    ……
婆さん   ん?

  妙子、いつの間にか窓際にいて、外を眺めている。

婆さん   恵蓮
妙子    ……
婆さん   恵蓮!
妙子    (振り向く)
婆さん   何を見てるんだえ?
妙子    ……
婆さん   言えないことえ
妙子    何も……
婆さん   何も?口答えするつもりか?
妙子    ……
婆さん   どうせ仲間の日本人を探していたんだえ?
妙子    ……
婆さん   窓からは離れろ!
妙子    (動けない)
婆さん   よし、よし、そう私をバカにするんなら、まだお前は痛い目に
      会い足りないんだろう
妙子    お願いです、どうか許して
婆さん   誰が許すものか(妙子が持っていた箒を取り上げる)
妙子    !
婆さん   こいつ!(箒で叩く)
妙子    痛っ
婆さん   口答えするな
妙子    ……
婆さん   お前は恵蓮だ
妙子    ……
婆さん   私がいるから、お前は生きてられるんだ
妙子    ……
婆さん   そうだろ?ここに来てから、一年かえ?日本人は誰も来なかっ
      たじゃないか?
妙子    ……
婆さん   アグニの神には器が必要、それも適った者しかなれん。それが
      お前だ
妙子    私は……私はお父様の下に帰りたい……
婆さん   まだ言うか(箒を振る)
妙子    ひっ
婆さん   その身はこの私の為に捧げるんだ
妙子    ……
婆さん   タエコはもう居ないんだよ
妙子    ……
婆さん   金があれば、この世は安泰、何不自由なく暮らせる。その何が
      不満なんだ
妙子    ……私は自由になりたい……  
婆さん   お前は恵蓮だ。ここしか居場所はないんだえ!

  婆さん、箒で妙子を激しく叩き出す。
  と、激しく戸を叩く音


<令嬢探し>

婆さん   !

  婆さん、妙子を急いで戸口の中に押し入れる。

  遠藤、入ってくる。

婆さん   ……何か御用ですか?
遠藤    物音がしたが?
婆さん   ありゃ、飛び込んで来た野良猫を追っ払ってやったんだえ
遠藤    ……
婆さん   見ない顔だ
遠藤    お前さんは占い者だろう?
婆さん   そうですえ
遠藤    じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかってるじゃないか?私も
      一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ
婆さん   何を見て上げるんですえ?
遠藤    私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを
      一つ見て貰いたいんだが婆さん   ……
遠藤    私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっ
      しゃる。私は遠藤という書生だが
婆さん   ……
遠藤    どうだね?その御嬢さんはどこにいらっしゃる(ピストルを出す)
婆さん   !
遠藤    この近所にいらっしゃりはしないか?香港の警察の調べた所じ
      ゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが
婆さん   ……
遠藤    隠し立てをすると為にならんぞ
婆さん   ……
遠藤    ……
婆さん   お前さんは何を言うんだえ?
遠藤    ?
婆さん   私はそんな御嬢さんなんぞは、顔も見たこともありゃしないよ
遠藤    嘘をつけ。今その窓から外を見ていたのは、確かに御嬢さんの
      妙子さんだ
婆さん   窓……
遠藤    ああ、そうだ
婆さん   ……
遠藤    それでも剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い
婆さん   あれは私の貰い子だよ
遠藤    貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。貴様がつ
      れて来なければ、おれがあすこへ行って見る
婆さん   ここは私の家だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へ入ら
      れてたまるものか
遠藤    退け。退かないと射殺すぞ(ピストルを挙げようとする)
婆さん   (カラスの啼くような声を立てる)
遠藤    !

  遠藤、雷に打たれたようにピストルを落とす。
  
遠藤    ……
婆さん   おや、知らなかったのかい?
遠藤    噂は本当だったのか……
婆さん   (嘲笑う)
遠藤    魔法使いめ……!

  遠藤、婆さんに飛び掛かる。
  が、婆さん、ひらりと身をかわし、箒を取り、床の上のゴミを掃きかけ
  る。 と、そのゴミが花火となり、花火の旋風となって、遠藤を襲う。

遠藤    御嬢さんは絶対に取り戻す(逃げる)
婆さん   日本人が……私には神が、アグニの神がついている。邪魔立て
      はさせないえ

  婆さん、戸口の中に去る。


<妙子の計略>

  その日の夜。十二時近く。
  妙子がいる、明かりの灯る家の窓の下。
  遠藤、窓の火影を口惜しそうに見つめている。

遠藤    折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来
      ないのは残念だな。いっそ警察へ訴えようか?いや、いや、支
      那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。万
      一今度も逃げられたら、また探すのが一苦労だ。といってあの
      魔法使いには、ピストルさえ役にたたないし……

  紙切れが上から落ちてくる。

遠藤    おや、紙切れが落ちて来たが……もしや御嬢さんの手紙じゃな
      いか?

  遠藤、紙切れを拾い上げ、懐中電灯を出し、照らし見る。

遠藤    やはり!

妙子    遠藤さん。この家のお婆さんは、恐ろしい魔法使いです。時々真夜中に私の身体へ、『アグニ』という印度の神を乗り移らせます。私はその神が乗り移っている間中、死んだようになっているのです。ですからどんな事が起きるか知りませんが、何でもお婆さんの話では、『アグニ』の神が私の口を借りて、いろいろ予言をするのだそうです。今夜も十二時にはおばあさんがまた『アグニ』の神を乗り移らせます。いつもだと私は知らず知らず、気が遠くなってしまうのですが、今夜はそうならないうちに、わざと魔法にかかった真似をします。そうして私をお父様の所へ帰さないと『アグニ』の神がお婆さんの命を取ると言ってやります。お婆さんは何よりも『アグニ』の神が怖いのですから、それを聞けばきっと私を返すだろうと思います。どうか明日の朝もう一度、お婆さんの所へ来て下さい。この計略の外にはお婆さんの手から、逃げ出すみちはありません。さようなら

  遠藤、懐中時計を出し、見る。

遠藤    ……もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使いだし、
      御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと……

  窓の明かりが消える。
  同時に不思議な香の匂いが漂ってくる。


<アグニの神>

  薄暗い、二階の部屋。
  机の上には、火の灯った香炉と魔法の書物が広げられ、婆さんは頻りに
  呪文を唱えている。
   妙子は椅子に座らされ、震えている。全身の皮膚が見える所にはアザが
  数か所出来ている。

妙子   ……!

   婆さんは呪文を唱え終わると、妙子の周りを周りながら、いろいろな手
  ぶりをし始める。
   ある時は前に立ったまま、両手を左右に挙げて見せたり、またある時は
  後ろへ来て、まるで目 隠しでもするように、そっと妙子の額の上へ手を
  かざしたりする。
  その姿はまるで大きな蝙蝠か何かが飛び回っているかのよう。

  玄関の前に、遠藤が現れ、鍵穴から中の様子を窺う。

  妙子、次第に眠りに落ち始める。が、手を合わせ、持ちこたえようとす
  る。

妙子   (心の中で)日本の神々様、どうか私が眠らないように、御守り
     なすって下さいまし。その代わり私はもう一度、たとい一目でも
     お父さんおお顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろし
     ゅうございます。日本の神々様、どうかお婆さんを欺(だま)せ
     るように、御力を御貸し下さいまし

  妙子、それでも眠気に襲われ、眠りに落ち始める。
  徐々に、銅鑼でも鳴らすような得体の知れない音楽が聞こえ始める。

遠藤    何の音だ?
婆さん   おお、アグニの神

  妙子、眠ってしまう。

遠藤    御嬢さん、うまくやってくれよ……
婆さん   アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことをお聞き入れく
      ださいまし

  先程の音楽が空間いっぱいに広がる。
  そして、間。

  妙子、大きく息を吐く。
  と同時に、婆さん、ひれ伏す。

婆さん   アグニの神よ、よくぞ御出で下さいまして
妙子    ……
婆さん   どうか私の申すことをお聞き入れ下さいまし
妙子    (荒々しい男のような声で)いや、おれはお前の願いなぞは聞
      かない。お前は俺の言いつけに背いて、いつも悪事ばかり働い
      て来た。おれはもう今夜限り、オマエを見捨てようと思ってい
      る。いや、その上に悪事の罰を下してやろうと思っている
婆さん   ……
妙子    お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命
      が惜しかったら、明日とも言わず今夜の内に、さっそくこの女
      の子を返すが好い
婆さん   ……

  間

婆さん   人をバカにするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思っ 
      ているのだえ。私はお前に欺される程、耄碌はしていない心算
     (つもり)だよ。早速お前を父親に返せ……警察の御役人じゃあ
      るまいし、アグニの神がそんなこと御言いつけになってたまる
      ものか

  婆さん、どこからかナイフを取り出し、目をつぶった妙子の顔先へ突き
  つける。

婆さん   さあ、正直に白状おし。お前は勿体もなくもアグニの神の、声
      色をつかっているのだろう
妙子    ……
遠藤    ……
妙子    お前も死に時が近づいたな
婆さん   ……また痛い目見たいのかい
妙子    おれの声がお前には人間の声に聞こえるのか
婆さん   何言ってる?アグニの神の真似はもう御止し
妙子    ……おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前
      にはわからないのか
婆さん   は、笑わせるんじゃないよ。炎の声?よく思いついたもんだえ
妙子    わからなければ、勝手にするが好い。おれはただお前に尋ねる
      のだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言いつ
      けに背くか
婆さん   ……
妙子    ……
婆さん   (妙子の襟髪を掴み、引き寄せ)この阿魔(あま)め。まだ剛
      情を張る気だな
妙子    ……
婆さん   よし、よし、それなら約束通り。一思いに命をとってやるぞ

  婆さん、ナイフを振り上げる。

遠藤    いけない!

  暗転


  一間置いて、叫び声

遠藤(声) 御嬢さん!

  戸が何度か破られようとする音がし、板の砕ける音、錠のはね飛ぶ音
  外の光が入ってくる。
  その光の中、遠藤が立ち上がり、辺りを見回す。

  婆さんは消え、妙子が椅子に死んだようにかけている。

遠藤    御嬢さん、御嬢さん
妙子    ……
遠藤    御嬢さん。しっかりおしなさい
妙子    ……?
遠藤    遠藤です
妙子    遠藤さん?
遠藤    そうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。
      さあ、早く逃げましょう
妙子    計略は駄目だったわ。つい私が眠ってしまったものだから
遠藤    え?
妙子    堪忍して頂戴よ
遠藤    計略が露呈したのは、あなたのせいじゃありませんよ。あなた
      は私と約束した通り、アグニの神の憑(かか)った真似をやり
      おおせたじゃ、ありませんか?
妙子    ……
遠藤    そんなことはどうでも好いことです。さあ、早く御逃げなさい
      (妙子を抱き起す)
妙子    あら、嘘。私は眠ってしまったのですもの。どんなことを言っ
      たか、知りはしないわ 
遠藤    ?
妙子    計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ
遠藤    そんなことがあるものですか。私と一緒にいらっしゃい。今度
      しくじったら大変です
妙子    だってお婆さんがいるでしょう?
遠藤    お婆さん?

  遠藤、懐中電灯を出し、辺りを照らす。
  と、先程婆さんがいた場所に一面、彼岸花が咲いている。

遠藤    ……
妙子    彼岸花……
遠藤    ……
妙子    お婆さんはどこへ?
遠藤    わかりません
妙子    ……何が起きたの?
遠藤    私にも、さっぱり……
妙子    ……
遠藤    ……
妙子    遠藤さん
遠藤    何ですか、御嬢さん?
妙子    ……私、夢を見ていたの?
遠藤    え
妙子    一年。私は恵蓮という名で生きてきた。望んでもない役割を与
      えられ、逃げ出そうとすれば暴力を振るわれる……
妙子    おばあさんは地獄に行ったのかしら?
遠藤    どうでしょう……
妙子    ……
遠藤    もしそうだとしたら。あのお婆さんを連れていったのは今夜こ
      こへ来たアグニの神です

遠藤、抱きかかえられたままの妙子、そして、彼岸花。
静かに幕が降りる。

                              
                                 
                                  おしまい

初稿2020/5/25                                

出会ってくれて、記事を読んでくれて、ありがとうございます。演劇をやっています、創るのも、立つのもです。良い作品を届けれるよう、日々やって参ります!