川合康三 訳注『白楽天詩選(上下)』

白居易、字(あざな)は楽天。位は人臣を極め、当時の詩壇を席巻し、のこされた詩数は唐代随一。古来日本で最も愛唱された大詩人(772-846)の詩から、世の不正を憤る諷諭詩、日々の幸せを慈しむ閑適詩、玄宗と楊貴妃の愛の賛歌「長恨歌」、落魄の女性を相憐れむ「琵琶行」など、清新多彩な作を生涯に沿って精選。上巻には江州流謫期までの約七十首を収録。

唐詩に新風を吹き込んだ白居易。地方長官として赴任した三峡・杭州・蘇州など各地の風物をうたい、生涯の友元稹(げんじん)と交わした詩で友情の文学を確立。やがて朝廷は醜悪な政争の舞台となり、洛陽に隠棲。風雅を尽くした大邸宅で、物心両面のゆとりを悠々と楽しむ。そこで実現した「閑適(かんてき)」「知足(ちそく)」の精神は、文人理想の生き方として継承される。

漢詩を読みたいなあと思ったきっかけは、NHKの『漢詩紀行』という短い番組だった。

中国の雄大な景色の映像に、江守徹の朗読が重ねられる。江守の深みのある美声がなんとも魅力的で、美しい映像と相俟って強い印象が残った。二十歳になるやならざや、の頃のこと。

とはいえ漢詩は難しい。何度かチャレンジしては跳ね返されてきた。大学で漢文を多く読んで(読まされて)いたのもあって、一字一句読み下さないと、という意識があり、詩を味わう手前で疲れてしまうのだった。

それから三十有余年、もう漢文なんて読めるべくもない、そういう諦めの境地に達し、細かな語句には拘らず、訓み下しと現代語訳で大意を拾いながら、描かれた光景や、対句の妙などを楽しみながら読めた。ページが進むに連れて次第に漢詩の表現やリズムにも慣れてくるようにも思う。

白居易は中国本土でも日本でも大人気だったそうで、平明な作風の詩人(解説より)。

詩人の作風を読み取れるほどにはまだ読みこなせないけれど、案外読みやすかったのは白楽天ゆえ、という面もあるのかもしれない。

この文庫は経年に編集されており、居住地ごとに章を変える構成になっている。漢詩は風景を詠む割合が高いので、同じ地にいる時に作った詩を纏めるのは理に適った編集だと思う。

訳文も平明で非常に読みやすく、訓み下しと続けて読むと、訓み下しでは意味が取れない部分もなるほどそういう意味なのかとすぐに理解できる。

前半の若かりし頃の作品は美しい景色の描写が印象的で、波乱含みの人生の道行に向き合って起伏にとんだ内容、下巻の後ろ半分は晩年を過ごした長安での作品を集めている。官位を返上し、老いと向き合いながら過ごした日々、先立った友達との思い出、諦念と切なさが色濃くなっている。

そういった、白居易の人生の浮き沈みについても、適切な解説がついているのも良い編集だと思う。

初めて読む漢詩には相応しい一冊。これから少しずつ外の詩人も読んでみよう。

涙を掩(おお)いて郷里に別れ
飄飄として将に遠く行かんとす
茫茫たり 緑野の中
春は尽(つ)く 孤客の情
馬を駆りて丘隴(きゅうろう)に上れば
高低 路(みち)平らかならず
風は棠梨の花を吹き
啼鳥 時に一声
古墓は何れの代の人ぞ
姓と名とを知らず
化して路傍の土と作(な)り
年年 春草生ず
彼に感じて忽として自ら悟る
今 我は何ぞ営営たる

忍び泣きをしながらふるさとに別れ、あてもなく遠い旅に出る。
茫茫と広がる緑野、春尽きる時、一人旅する者の思い。
馬に乗って墳墓の丘に駆け上れば、高く低く道は起伏を繰り返す。
風がヤマナシの花に吹き寄せ、鳥が時折り一声さえずる。
古びた墓に眠るのはいつの世の人か。性も名も今に伝わらない。
変りはてて道端の土くれとなり、年ごとに春の草が生える。
それに感じてふと自らを省みる。今、わたしは何をあくせくしているのか、と。

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