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伊庭靖子 - 僕の好きな藝術家たち vol.8

好きな藝術家について書きたいように書てみるシリーズ。その藝術家についてのバイオグラフィとか美術史的意義とか作品一覧とかはインターネットで他のページを参照してください。


その透明感のある、柔らかな光を捉えた筆致に惹かれて、知らない作家の展覧会に足を運んだ。

「まなざしのあわい」と題された展覧会は、メディアで取り上げられ耳目を集め行列のできるような派手さとは無縁だったけれど、そこで出逢ったのは、フェルメールやレンブラントと同じように、光に魅せられて光を追い求めて光をカンバスの上で踊らせようとする、素晴らしい作品だった。

光を描こうとするアーティストたちが近代絵画における1つの大きな流れを作って、それがモネら印象派に辿り着くと理解するならば、近代絵画の歴史とは光を求めたアーティストたちの歴史とも言える。

伊庭靖子の作品は、そこからさらに、「見ること」という行為を深く掘り下げた方法論でもって、これまでの系譜とは全く違う光を捉えているように思える。

李禹煥が『出会いを求めて』で、メルロ=ポンティの現象学に依拠しながら、現代アートの始源を考察したことと、伊庭靖子が「見ること」と対象物との間(=あわい)に常に存在する何ものか、に自覚的であることとが、何処か深いところで響き合っているように感じる。

もちろん李禹煥の作品とはかなり味わいの異なる伊庭の作品は、そんなコムツカシイ理屈などほっぽり投げて、ただ作品の前でその柔らかな光のダンスを、目眩く思いで感じればよい、と語りかけてくる。柔らかで優しくて暖かな光のダンス。

ちなみに、展覧会のチラシでもアイキャッチに使われていた作品は、派手さのない壺を描いたもので、ジョルジョ・モランディとの関係を考えてみるのも面白いかもしれない。伊庭の作品には、モランディの孤独は感じられないけれど、しかし人はいつも光を掴みそこねていることへの、静かな共感と慰撫とを、カンバスから感じる。

そして、八木重吉のこの詩を思い浮かべる。

はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかつたのです

ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福れながら

「ひかりは」(八木重吉『秋の瞳』)



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