見出し画像

奈義町現代美術館

1994年に磯崎新の設計で作られた美術館。岡山県の勝田郡という、津山の近くののどかな農村の中にそれはある。奈義町現代美術館、愛称はNagiMOCA。

ネギモカ…?

既知と未知

たとえばデュシャンの「泉」を何の予備知識もなく観たとき、驚きや衝撃の大きさはMAXになるだろう。一方もし、”便器にレッテルを貼っただけの作品”という話を聞いてから観たら、驚きは半減どころかコンセプトの確認をするだけの鑑賞になってしまうだろう。

美術作品は、現代アートであれ古典的作品であれ、ジャンルに限らずそのような、未知の状態で出会うからこそ生まれる大きな心の動きを生み出すとき、もっとも輝く存在となる。この”出会い頭の衝突”とでも言うしかないような衝撃こそが、美術体験最大の魅力だと僕は考えている。

だから、奈義町現代美術館にどのような作品があって、鑑賞者はどのような体験をすることとなるのかについて、まだ訪問したことのない人に向かって説明するような書き込みは、するべきではないのだろうと思う。

僕自身、詳しい情報を知らないままに今日、この美術館を訪れた。何も知らないままに体験できた、何も知らなかったからこそ生み出されたあの時間の豊穣さ。

しかし一方で、時間や資金を費やして体験するだけの価値があるのだろうかと、訪問を躊躇している人に、何か一歩踏み出してもらえるような何かを伝えらないだろうか?とも思う。

だから、ミステリをネタバレせずに論評するような慎重さを持って言葉を紡ぐとするならば、奈義町現代美術館では、単に作品の前に立って鑑賞する、というような受け身の体験ではなく、身体全体を使って作品自体の存在を体感する、そんなコンセプトのミュージアムだということ。

直島の南寺のジェームス=タレルの作品のような、というとややネタバレがすぎるだろうか。しかしもちろん、南寺とこの美術館とでの体験の内容やコンセプトは全く違うものなので、この情報だけで出会いの衝撃が低減されるようなことはないだろうと思う。

3つの部屋

NagiMOCAの常設展示は、3つの部屋から構成されている。太陽、月、大地。

その中でも太陽と月は、その空間の中に身をおいて体験するコンセプトが剥き出しになっている。一方、大地に関しては、いささか控え目というか、通常のアート鑑賞に近いコンセプトとなっている。だから少しだけ、大地の部屋のことを書いてみたいと思う。

大地の部屋

宮脇愛子の彫刻作品(しかし彫ったり刻んだりした作品でもないと思うのだけれど)と、同じモチーフを宮永自身が描いたドローイングが展示されている。

彫刻作品の大きさ、奔放さにまず目を奪われる。縦横無尽に迸る細く曲がりくねった何か。その勢いに溢れた様はしかし、大地にしっかりと根をおろしていて、言わば、大地から放たれた光のような。

大地の部屋は、水に覆われたセクションと、石塊で覆われたセクションとに分かれていて、どちらも作品自体はステンレスの硬質な素材で作り出されており、全体として東洋哲学的な鋭さを観るものに突きつける。

水のセクションは中庭のように野外スペースとなっていて、解放感と生命感が漲る。いっぽう石塊のセクションは暗い部屋となっていて、奔放な迸りでありながら静的な静謐さを湛えている。光と影、その対比の妙。この二項対立もまた、陰と陽の東洋的世界観を想起させる。

歩みを進めると、今観たばかりの彫刻作品のプロトタイプとでも言うような、線だけのドローイング作品が並ぶ。奔放で夥しい多くの線からなる彫刻作品と違って、ドローイングは少ない線だけがシルクスクリーンのカンバスに引かれている。その線は墨汁ではなく(東洋的な世界観からの単純な連想)、木炭かチョークで描かれている。

そして、その描かれた線は、濃くなったり薄くなったりかすれたりして、描き手である宮脇の腕の動きの生々しさを感じさせる。彫刻作品のステンレスの無機質さとの対象がまた興味深くて、アート作品を生み出すという行為の幅の広さ、多様性、多義性。非常に面白い。

月と太陽

他の2つの部屋に関しては、やはり何も語らずにおくのが良いのだろう。どちらも、身体を揺さぶり、我々の持つ常識を揺さぶる。まさに現代アートの真骨頂とでも言うべき作品。

個人的な好みとしては、より月の部屋に大きく揺さぶられた。自分が認識している自分自身の身体像とは、果たしてどこまでリアルなのだろう。突き詰めれば、自分で認識する自己自身はどこまで自分自身と一致しているのか。存在の耐えられない不確かさ。ネタバレにならないようここで筆を止めておこう。

既知と未知 再び

あるミステリ作家が「ネタが割れてしまったならもう読む価値がないと思われるような、そんな作品を書いているつもりはない」と述懐していたが、ネタを知ってなお、読み返すたびに描写の妙や文章のリズムを楽しめる作品でなければ、それは文芸作品とは言えないだろう。

美術作品においてもまた、同じことが言えるのだろうか。

出会い頭の衝撃を経て、作品に再び出会った時、そこにもやはり感動が―それは初めての出会いの瞬間とは大きく質を異なるもの―存在しているだろうか。もちろんそうだろう、そうでなければそれは芸術足り得ない。出会い直すたびに新しい、そこに芸術の魅力の源泉がある。

NagiMOCAの3つの部屋は、いずれも外の光が大きな構成要因となっている。時間や天候、季節によって、おそらく部屋の相貌は大きく変化するだろう。これはどのような対象を認識するときにも言えることではあるのだけれど、とりわけNagiMOCAにおいては、その変化自体を増幅するような構造になっている。

だから、我々が世界を知り尽くせないように、訪れるたびに、知らない作品世界に出会えるはずだ。

既知にして未知なもの。そこからが芸術の本領発揮、NagiMOCAというアート空間はそれを研ぎ澄まされた形で体験させてくれる場だった。

おまけ

明日から企画展が始まるようで、スタッフさんたちはその準備に忙しそう、今日は僕以外に観客もおらず、どの部屋も独り占めでした。気兼ねなく過ごせてとても良かった。

家を出る時は降っていて、美術館に着いた時はまだどんよりした空模様
観終えて出てきたら雨が止んで青空も
暑くなったので通りかかった道の駅でつい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?