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【鉄面皮日記】22/06/28.2U明けベイベ。

ヘイ、梅雨明けベイベ!
最速だって、雨ぜんぜん降ってないって、ぶっ壊れてんね世界。
我々がぶっ壊した世界でそれを甘受しながら、目前で我が子がむざむざと殺されていく様を見せられているような素敵な時代になりました。
責任があるなんて云わないで、責めちゃいけないし責める立場にいる人なんていないんだから。
僕に云えるコトなどなにもなく、ただ見送っていくしかないんだろうな。

プーの云う「仕事と労働は分けた方がいいわよ。」
に深い意味を求め、齢50過ぎの男が翻弄されている。
分けられないコトは了解してる。
賃金も頂く仕事をすればするほど、その境界は曖昧になっていく。
誰から賃金を頂いているのかといえば直接的に雇い主であるが、その賃金が発生している先はその仕事に報酬を支払っているお客がいて、僕らはいったい誰に雇われているのか判然としないコトもある。
誰を納得させればその仕事は完遂されるのか、どこを向いて従事すればいいのか、お金が派生したからそれで終わりなのか、あらゆる矛盾が生まれては消え、やがてその仕事に慣れ、疑問よりも安楽と安住を引き換えに、同じ作業に没頭していく。
どんな意識で仕事をこなそうが、賃金は同じだというコトを知る。
さてどうしようか、と選ぶのはその当人だけだ。
答えなんてないんだからね。
かく云うわたくしがいまだに一番分かっていない、
いったいどうして僕はこうやってお給料を頂いて生きていられるのだろうか、と。

たぶんローリング・サンダー(インディアン/ネイティヴアメリカン)のいわゆるヒーラーが語っていたところに拠ると
人を癒すために植物を刈った時に、紙幣をそこに添えるそうだ。
もしかしたら違う人かも知れないが調べる気力がないので、そんな話ということで、
そこで思うこと、植物にとってお金には何の価値もない。
しかし人にとってお金はとても意味があり、身を削り稼いだお金をそこに差し出すということ。
その対価としては何でもよいのだと思う。
今とても必要なものを得るために、それ相応の何かを手渡す。
物々交換の法則であり、感謝の気持ちを伝える手段であり、そうやって世界は成立している、
という気がする。
そのバランスが崩れた時、それは因果応報というか、手痛いしっぺ返しを食らうということは当然なのではないだろうか。
どこで誰もが、それはあって当然だというような精神に陥ってしまったのだろうか?

寺町通り

すごく微妙で曖昧なお話でゴメンなさい。
いつも仕事帰りに缶ビール呑みながら、この街を散策する。
こちらにきて4年余り、まだ迎えられていないようだし、いまだ観光気分になってしまう。
通り過ぎているだけだという気持ちは、どこにいても変わらない。
つーコトは一生"Passenger"なわけなのです。
それもいいだろうし、人にまかせた人生だともいえ、なにをいう、なにもいうな、今夜の月も綺麗だね、
という領域になっていくのね。