いまはもうない

 ひとり暮らしのアパートを探すにあたって、いちばん重視したのは家賃が安いことだった。つぎにトイレと浴室が完全にわかれていること。その結果、立地的な相場ではかなりの低家賃かつバストイレ別であるが築三十年、という年代物のアパートの一室を契約した。それから五年以上もそこに住むことになった。

 そのアパートの名称は「幸荘」といった。正式な読みかたについて大家に尋ねたことはなかったが、わたしは「さいわいそう」とよんでいた。引っ越しのあとはじめて訪ねてきた友人は、アパートの陽が当たらない壁面に黒ペンキでかかれた名称を見て開口一番に「しあわせじゃなさそう!」と言い放った。そうなのだ。見るからに築深の、外階段の鉄が錆びている建物に「幸荘」という文字が大々的にえがかれていると、アンバランスさに拍車がかかってしまうのだ。さらに友人は、台所の照明として吊るされた裸電球が点くさまに腹をかかえて笑い、わたしも「いっそ笑ってもらえてしあわせだ」とまで思った。

 幸荘はことあるごとに古さを感じさせ、無いものばかりが目立った。夏は暑く、冬は寒すぎてよく風邪をひいた。テレビは映らず、インターネットの光回線工事も難しいと断られるほどで、固定電話回線を引いてADSL通信をするという回りくどさでネット環境を整えた。それでようやく文化的なものと繋がれた気がして、仕事を終えて家に帰るとパソコンばかり見ていた。お金はなかったが、風邪をひく以外は健康な身体と、まったくひとりの完全に自由な時間がたっぷりあった。いまでは、「自由」を夢想するときには幸荘でのくらしを思い浮かべる。それほどまでに自由しかない空間だった。

 不便や不満をあげれば両手では足りないくらいだったが、気に入っている点もあった。幸荘のすぐ近くにはCDやDVDのレンタルショップと本屋が一体となった店舗があり、アンテナ線もなく映らないテレビを持て余していたわたしは足繁くそこへ通った。アパートとその店のあいだには一メートルほどの幅がある用水路が流れていた。水位はほとんどないものの深さが二メートル弱くらいで、毎回「もし落ちたら骨折するかも」と危惧しながらそこを飛び越えてレンタルショップへ行ったのをおぼえている。あぶなくない正規のルートをたどっても五分くらいの差ではあるが、相当かかとの高い靴を履いているときでもない限り挑戦はつづいた。

 幸荘の終わりはすこしずつはじまっていた。毎日おなじように仕事へいき、おなじような時間に帰ってきて用水路を飛び越え、着々と海外ドラマを見進めているあいだに、おなじ敷地内に居を構える大家の長女が結婚し、赤ん坊がうまれ、小学校低学年だった大家の長男は野太い声の中学生へと成長して父親と毎晩激しく言い争いをした。

 アパートの住人も知らないあいだにすこしずつ変わっていた。大家の知人らしき人物が越してくると同時に周囲に犬がうろつくようになった。ペット禁止だけど知り合いだからオッケー、といったレベルを超える大きさの黒い犬が少なくとも二頭、リードにつながれないまま敷地内を徘徊していた。わたしの住む部屋は一階だったので、窓のすぐそとから犬の荒々しい息づかいとたくましい足音が聞こえるようになった。それと同じ頃から上の住人がスズメに餌付けをはじめて、早朝、二階の窓から撒かれた米粒がばらばらと着地する音で目を覚ますのが日課になった。

 わたしが狂いはじめているのか、周りがおかしなことばかりになっているのか、判別がつかなくなりつつあった。ある朝、自分の車に米粒が降り積もっているのをみたときに耐えかねて、通りがかった大家の妻に事実を伝えた。しかし反応は期待していたものとはちがって、「あらやだ、○○さんたらそんなことしてたの、あはは」と朗らかにぬるいものだった。こうして食い違う人たちが、それぞれの領域を守るために戦争を起こすのだと思った。やがて自分が結婚するにあたり、戦争には至らず平和的に幸荘を退去した。

 引っ越しとはいっても同じ市内で、件のレンタルショップに行くときには懐かしさからよく幸荘を眺めた。自動車で行くため裏の用水路を飛び越えることはもうないが、ときどき黒い犬が闊歩しているのがみえた。スズメの餌付けまでは確認できない。わたしが住んでいた部屋には誰かが入居したようだ。幸荘の歴史はつづいていく。そう思われたある日、ぽっかりと幸荘はなくなっていた。かわりに駐車場だった場所に新しいアパートが建っている。壁に掲げられている控えめな飾り枠のプレートは英語のようで、少なくとも「幸荘」という名称ではなさそうだ。どれだけ窓を閉めてもすきま風が吹いて、浴室の天井からひたひたと水漏れがしたアパートはもう跡形もない。幸荘は永遠にわたしのなかだけにあるアパートになった。目に見えるかたちは完全に失われた。かけがえのないもの。それはわたしがこの世でもっともこころを奪われるものである。

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