幼い記憶

 幼い頃の記憶のなかでもっとも古いのは、母が漕ぐ自転車に乗せられていたことだ。ハンドルとサドルの間に取り付けられた子供用の座席。眼前に迫りくる景色と、リズミカルに回されるペダル。自転車で一時間ほどの道程に飽きると、わたしはよく右ハンドルに付けられたベルに手をのばした。銀色に鈍く光るそれはわたしと母の顔を間抜けに映している。ベルの上部分に触れていると、徐々にネジが緩みはじめる。面白くなって回し続けると、外れて、ベルの上部分は吹っ飛んでいった。そして飛んでいって初めて、母はわたしがそれをいじっていたことに気づき、呆れたように笑いながら拾いに行く。わたしもそれをみてげらげら笑う。いたずら好きの子供であった。

 母とわたしがそのようにして一台の自転車で向かうのは、道場だった。道場といっても柔道や剣道のそれではなく、当時母が傾倒していた宗教の地方支部のことをそう呼ぶのだった。母は幼少期に聴力を失ってから成人、結婚し、兄とわたしを生んだ。わたしが母を認識した頃には、母はすっかり「耳が聞こえない人」だった。母は我が子とのコミュニケーションをとるために、言葉と一緒に指文字を教え込んだ。手話が単語や動作そのものを両手の動きで示すのに対して、指文字はひらがなの五十音を片手で表す。ひとつの文章を指文字で伝えるとしたら、一文字ずつすべてひらがなで書くのと同等の労力が必要だった。

 熱心なトレーニングによって物心つく頃に指文字を習得していたわたしは、指を動かして母と交流するのが好きだった。幼子が小さな指でしきりに親に話しかけている姿は、道場に集う信者のあいだでもしばしば話題になった。周りの信者が母に話しかける言葉を指文字で訳し、母が答える。母の耳は全然聞こえないが、喋ることに関しては聴力を失う前に習得していたので健聴者とほぼ同等の発音だった。そのことが疑念を抱かせる要因になり、職場や近所で「耳が聞こえないふりをしている」と、噂を立てられることもしばしばあったようだ。それが母を宗教に向かわせる一因にもなっていたのではないかと思う。

 道場で出会う大人はまず、母の耳が聞こえないことに同情する。それから傍にいる未就学児をみて、今度はその子に同情する。しきりに「大変ね」という言葉をかけながら、感極まって涙を流す人までいる。その人が漏らす言葉をわたしは逐一指文字にして母に伝え、相手は感心を示す。その姿は、わたしと母の自尊心を満たした。保育園と道場。それがわたしにとっての社会のすべてだった。道場には同じようにして親に連れられて遊びにくる子供がときどきいた。子供は子供同士遊んでらっしゃい、としばしば無理やり引きあわされることもあったが、道場で楽しく遊んだ記憶はほとんどなかった。わたしとしては母と一緒にいたほうが気が楽だった。大人の心を掌握する術は心得ていたが、同じ年の子供とどう遊んだらよいのかわからないのだ。小さい子供の遊びというのは大人がある程度介入して誘導するとスムーズにいくことが多いが、道場に子供を連れてくる親は、談話やお祈りなどの自分の目的を果たすことで精いっぱいだった。

 母の居場所が道場だけにあったように、母のそばだけがわたしの居場所だった。小学校低学年くらいまでは、そうやって母について道場に通っていたが、やがてわたしは他に楽しいことを見つけ、気の合う友達をつくり、ひとりで遊びに行くようになった。そうして外の世界に触れはじめてからやっと、母は別として、自分の境遇は周りの大人が評するほど「かわいそう」でも「感動的」でもないことに気づいた。兄とわたしが成人し、年老いてからの母は道場に通うどころか、家に建てつけの仏壇までつくるほど信心していた宗教からあっさりと距離を置いた。

 わたしの幼少時代は、母の宗教時代とともにあった。動物園で生まれ育った生き物が野生のジャングルを知らないように、耳が聞こえない母と、信者が集う道場はわたしにとってごく当たり前の環境だった。ずいぶん時間がたった今になって強く残っているのは、自転車のベルの一部を吹っ飛ばしてゲラゲラ笑いあう母と子の姿だ。そしてそれを思い出すのは、たいてい四歳になる息子のいたずらで笑いあっているときだ。家のなかで突然服を脱ぎすてて裸になったり、レースのカーテンに隠れてじっとしたりなど、息子はときどきおかしなことをして反応をみる。わたしは必要以上に大きく困ってみせたり、極限まで顔を歪ませて驚いてみせたりする。普段使わないような表情筋を遣えば使うほど息子は笑い、彼の記憶に強く残るのが母親の全力でする変顔だったらどうしよう、とわたしはひそかに心配している。

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