埴輪とディナー

 山奥のペンションでオーナー自ら振る舞うこだわりのディナー。それ自体が旅の目的といってもいいほどだった。夫と付き合っていたときのことだ。

 そのペンションは私たちが住んでいる市内から車で二時間ほどの場所にあった。午前十時頃に出発し、山のなかの沼や湖を観光した。車は夫が出したが、深夜に一挙放送していたドラマ「ROOKIES」を最初から最後まで見たらしい。ひたすら眠そうだった。

 宿に着いたのは夕方頃だったと思う。食事や施設の内容を説明してもらい、早速温泉へと浸かる。冬場はスキー客でにぎわうというペンション村だが、雪が降らない季節では客もまばらだった。

 さて、ここまででいくつか間違いがある。

 それに気が付くのは、一番楽しみにしていた夕食のときだ。

 その日のメニューは、うにクリームのコロッケ、サラダ、スープ、牛肉のステーキ、自家製パン、手打ち蕎麦、デザート数種類。

 最初に出されたコロッケをひとくち食べたところで、夫が激しく体調を崩し始めた。

 真っ青な顔をしている。

 なんとかコロッケを口に入れ食べ進めるものの、顔色が青から土のような茶色になっている。

 寝不足なうえに、山道の運転、沼の周りを歩くなどの比較的アクティブな観光、宿到着直後の温泉。ギリギリのバランスで保たれていた夫というジェンガが、崩壊してしまったのだ。

 今にも戻してしまいそうな夫は、部屋に戻るしかなかった。もはや出来たての食事を目にするだけでもつらいと言う。

「私も一緒に部屋に行ったほうがいいんじゃないの」

「いや、せめてきみだけは、丹精込めてつくられた食事をおいしくいただいてほしい」

 僕のことは気にせずに……と、一足先に遠くへ旅立つ兵士のように遺言した。

 私はそれに従うことにした。夫、といっても当時は恋人であるが、その頃の彼はわりとすぐに体調を崩しがちだったのだ。痩せ型ということもあり、体内に貯めておけるエネルギー量が少ない。そのため、すぐ燃料切れを起こす。燃料が切れたからといってすぐ補給をしても受け付けず、しばらく臥せることが少なからずあった。

 かくして夫は部屋に戻り、私は残った。ペンションのオーナーと、オーナーの奥さんがひどく心配していた。もしや、クリームコロッケで具合が悪くなったのではないか、と思っただろう。私はそこだけは強く否定したが、風邪とも言い難いし、元々ひどく体調が悪かったわけでもないので、詳しく言いようがなかった。何とも不穏な空気だけが残った。

 そんななか、コロッケ以降のメニューが提供される。評判どおり、どれもこれもおいしい。しかしそれを伝える相手がいない。オーナー側は気の毒そうな、心配そうな態度を崩さないので、こちらが手放しに「めっちゃおいしいです!」と言うわけにもいかない。食事が運ばれてくるタイミングで、控えめに感想を伝えた。それ以上に夫のことを心配され、謝罪した。

 この夜、私たちのほかにはもう一組宿泊していた。

 離れたテーブルでは、二十代くらいの女性が四人ほど、和気あいあいと食事をしている。ここに泊まるのは何度目かなのだろう、オーナーとも気さくに話しこんでいる。

 もし私が見知らぬ人との交流を得意としていたなら、夫のことは「たまにあんな状態になるんですよー、ほんとうにすみませんねぇ」とでも言いながらワインでも頼み、あんな風に宿の人と会話を楽しむことができただろうか。いや、できない。例えはじめから一人旅だったとしても、もうひとつのテーブルのように楽しい雰囲気を作り出すことは無理だ。

 私はくじけた。食事がおいしければおいしいほど、泣きたい気持ちになった。こんなところでコミュニケーションの難を痛感するとは。昨夜ROOKIESが一挙放送されていなければ。宿に着いたあとすぐ温泉に入らずに、ひたすら休憩していれば。自分の人徳の低さとともに、すべてのことを呪った。しかし、顔には出さないように努めた。なるべく平気な顔をして、ひとりで頷きながら食べた。暗い窓ガラスに映る自分の表情は埴輪のようだった。

 一晩眠り続けた夫は、翌日の朝食を食べられるほどまでに回復した。夕食にはかなわないが、朝食もていねいにつくられていて素晴らしい味だった。夫はしきりに感激し、お櫃に入った白飯を何度もおかわりした。

 後日、「噂のステーキはおいしかったか」と夫が聞いてきた。あのペンションのステーキは分厚くて大きいことで有名で、宿のレビューをみるとだいたいそのことについて書いてある。さあ、おいしかったとは思う、と私の答えはいつも決まっている。「またまたー、遠慮せずに言ってくれ」と夫はにやにやしながら同じ質問を続ける。楽しみにしていたメインを食べられなかった夫に気を遣っているのではない。ステーキがほんとうにどんな味だったのか、記憶にないのだ。それは目と鼻の下にぽっかりと空いた穴にただ吸い込まれていった。

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