子供が可愛すぎて泣く夜
息子がこのたび五歳になった。
同世代の子達とは身体の大きさ的にも発達面でもかなり遅れをとっている。顔もまだぽちゃぽちゃしてるし、声は磯野家の末っ子なみに甲高い。客観的に見ても「まだまだ小さい子」という感じの息子。
息子はとにかく甘えん坊だ。
なにかと手をつなぎたがり、隙あらば膝の上に座ってくる。
しゃべっている分量が多ければ多いほど機嫌の良さをあらわし、調子がよければずっとピーチクパーチク楽しそうに話している。
そんな息子が可愛くてしかたがない、といつも百パーセント思っているわけでは、ない。
相対しているととにかく疲れてしまう。
こちらの元気を根こそぎ吸い上げるかのように、同じ遊びを何度も何度も要求したり、ちょっとしたことでへそを曲げて大泣きしたり、休みなく、ひどく濃密なコミュニケーションを強いられる。
毎日へとへとになりながら生活のことに気を配り、息子の気持ちも尊重し、などとやっているとすぐガス欠になってしまう。
わたしのどこかに修復できないような穴があいていて、そこから絶えずいろいろなものが喪失していくような気持ちになる。
そういうわけでいつもいつも息子を可愛い可愛いと思うことはできなくなってしまう。
だけど、夜になって、フル回転で活動していた息子がすやすやと寝息をたてはじめる頃。
またわたしのなかの「息子可愛いランプ」がともされ、からっぽになったバッテリーが充電されはじめる。
昼間の息子の様子を思い出す。
はじけるような笑顔。なんでもないことであんなにゲラゲラ笑って。
わたしの手にのせられる、ちいさいけど最近しっかりしてきた息子の手。冷たければさすってやり、熱ければ体調が心配になる、やっぱりまだまだちいさな手。
なによりも澄んで純度もキーも高い声。「ひなまつり」の歌を気に入って自分で歌詞カードのひらがなを追いながら何度も歌い上げる独唱。ママ、と呼ぶ声。
そうやってひとつひとつ可愛いところを思い出していくと、突然涙があふれそうになる。
日々、育っていくこの子は、何年か後にはもう確実にこんな姿を見せてはくれない。
手はわたしよりも大きくなる。声は低く、太くなる。今みたいにこんな小さな身体で全力で甘えてくることなどない。
その事実は、喜ばしいことでもあるのだ。子の成長を喜ばない親なんていない。
それなのにこのさみしさは何だろう。
わたし自身だってそれを経て大人になりここまできたというのに。息子の可愛い姿がどんどん記憶のなかのガラスケースに陳列されていくようなさみしさに、いてもたってもいられなくなる。
ああ、だけどもしかしたら。
もっと先まで想像してみる。
子供から高校生、大学、成人、もっと年を取って、その先。
そのあたりでもしかしたら、万が一にでも、かつての小さい息子そっくりな顔をした子供がいたとしたら。
会いたい。わたしはその子に会ってみたい。
おばあちゃんだよ、はじめまして、と言ってその小さな手をさわってみたい。
と、そこまで考えて、目の前で寝息を立てている五歳の息子に再びフォーカスが合う。そして、彼にとっての祖母たちと会わせる機会をもっとつくってあげよう、と強く思うのだった。
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