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「伊集院光 配信トークライブvol.0」の感想(から大きく逸れて流れる文章)

『伊集院光の配信トークライブ vol.0』があまりにもよくて、そして残酷で、興奮状態そのままに、Instagramのストーリーで感想を文章にすると宣言してから早3週間。
過去の衝動的な言動が呪いとしての機能を果たし始めていると感じたので、ようやく文章にします。
ちなみに呪い(のろい)ではなく呪い(まじない)です。政治家の失言は呪い(のろい)だけど、この場合はポジティブに作用しているので呪い(まじない)。


トークライブの内容については、伊集院さん自身がそういう理由でアーカイブを残
していないから、詳細に書くことは控えるけれど、本当に良くて、そして残酷だった。

そのちょっと前に放送された『ナイツ ザ・ラジオショー』で語られていた内容と重なる部分があったり、伊集院さんをある程度追いかけていれば概要くらいは何となく知っているエピソードだったりするのだけれど、本人の視点から、(本にまとめるため、という目的のもと)詳細に整理しようという意図をもって語られると、当時どのような事情があったのかがより現実的に感じられた。伊集院さんはそういう言葉を使っていなかったし、自分もそういう表現は好きではないと前置きした上でいえば、もう自分ひとりではどうしようもない流れの中で、勝者と敗者がはっきり分かれていく。そういう話だった。(繰り返しになるけど、この表現はしっくりこないし、過剰だし、適切ではない。)
個人的なことと重ね合わせると、死にたいくらいにではないけれど、ラジオいっぱい聴けるぞとかテレ東見れるぞとかライブ見に行けるぞ出待ちもできるぞ、で憧れた大東京進出が、コロナ禍によって阻まれた経験があるので、自分の意志とは関係ない、意志では左右できない大きな流れとか力によって将来がガラガラ変えられていく怖さとか無力感とか、そういうのはある程度知っているつもりだ。(なので、意志が全てをコントロールしているわけではない!という哲学書を読みます。)

だから、その流れに呑まれ、もしくは乗りこなして、とにかく結果としては、偶然か必然かサバイブしてきた伊集院さんよりも、その反対の方を生きていた人(トークライブでは名前すら語られていない、いやもっといえば、伊集院さん含め誰の記憶にもないかもしれない)に感情移入してしまった。そういう意味で残酷だったのだ。今のところ、自分はきっとそっち側の人間だろうから。


この配信を見たあと、

というツイート(RT0 いいね0)をした。
『アルペジオ』は多分小沢健二から見て過去のことを歌っているので(自分が生まれ、生きて、体感していなかったときのことなので多分としか言いようがない)、何となくイメージが一致した。オザケンでいえば『彗星』も過去のことを振り返る歌だけど、あれはどっちかというと過去を振り返りつつ、その延長線上に流れる現状を肯定する曲だ。そういう意味では、(今回トークライブを聴きながら自分が想定した)伊集院さんの目線からみれば、『彗星』なのだろうけど、またまたすごく過剰な表現をすれば、やっぱり伊集院さん「じゃない方」の目線をもつ自分には、『アルペジオ』のあの無気力感というか、湿度というか、そういう要素の方が近く感じた。

「自分-東京」の話に結びつけて、『アルペジオ』の話をするならば、自分が東京に出てくる時にやろうと思っていたことのひとつに、曲の中に出てくる場所(駒場図書館、原宿、日比谷公園の噴水、下北沢の珉亭とシェルター)を巡ることがあった。原宿、日比谷公園の噴水、下北沢の珉亭とシェルターはコロナの隙をついて行ってやったのだけれど、東大の学生以外立ち入り禁止になっている駒場図書館にはまだ行けていない。あと、この前のライブで、「汚れた川」とは「古川」という河川のことだ、と本人が明かしていたのでこっちも見に行かなければ。

そして、ツイートこそしなかったけれど(またRTいいね0だったらやってられないので)、『夜空ノムコウ』も思い浮かんだ。というかむしろ、よく考えたら『アルペジオ』よりも『夜空ノムコウ』の方が、自分が今回の配信を見て抱いた感情に近い気がする。
過去が呪い(のろい)なら、「あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ」という言葉は、とても怖い。
それを考えることは、よほどの成功を収めていたり、それなりに歳をとっていたりしない限り、自分の過去とその延長線上にある現状を否定することにつながるからだ。だから、ある程度多く人はそれを考えることから避けて生きているんだと思う。
(最近、『暇と退屈の倫理学』っていう本を読んだのだけれど、その中に出てきた「退屈の第三形式」はこれだと思った。)
で、今バリバリに若い自分は、多分未来に振り返ることの多くなりそうな過去の地点に経っている。ニューノーマルとか、就活とか、広告代理店とか、民主主義への挑戦とか、そういう物騒でまともに向き合うことが恥ずかしくなる言葉とか現象が生活にどんどん迫ってきている。
これまでと何よりもちがうのは、そういうものに対して「たりない」が自己弁護(下手すれば自己顕示)ではなく、言い訳としか機能しないこと、自分でもそう思えることだ。「進む先よ分岐しないで」とか言いたいけど、言っちゃいけないと思っている。だからか、最近、初めて読んだときにあまりピンと来なかった『ナナメの夕暮れ』がちょっとだけしっくり来始めている自分に驚いた。


何が言いたいんだっけ。
結局、それこそ川みたいな、長い時間続くものを前にすると、やはり自分はとても怖いって話か。そうだそうだ。そして、その怖さ同じくらい、周りの人がその怖さを感じていなかったり、もしくは上手くコントロールできていることが怖いってことだ。そうだった。でもそれはずっとそうだった気がする。いつか歳を取ったり、努力してたくさん成功したり、たくさん失敗したりして、「まあこんな人生もあるよね!」って思えるまで待つしかないのか。

あー、それ、すごい面倒だな。一番嫌いなやつだ。


あ、全然話変わりますけど、「初恋の悪魔」、とてもいいですね。第5話のカラオケのシーン良かった。この世界もしくはたくさんの並行する世界のどこかに、友達とカラオケに行って大合唱できる人がいて良かったって思いました。俺じゃないのかよ、それ。


あと、この文章は、活動し始めた就職活動・大学の課題・バイト探しなどやることがそれなりに積もっているのに、それを無視しながら書きました。一銭にもならんのに。なので、若者に投資し社会の好循環を生み出していくことこそ、この日本に残されたわずかな希望という名の光であることに気がついている方、ご支援お待ちしております。
本当の心は本当の心へと届く、のだから。

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