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<ミラノ>ブランドバッグ製造:妹の尚

今回は、ミラノで20年以上暮らしている私の妹の話です。
 
妹、尚の生い立ち
私の妹、尚は、私と一緒に鹿児島県鹿児島市で生まれ育ちました。私が中学1年生、妹が小学校4年生の時母がアメリカ留学を決めた為、母と一緒に3人でアメリカのワシントン州に留学しました。(父は日本に残って仕送りをしてくれていました。)そこには2年いたのですが、父も自分の会社を建てたばかりで仕送りが大変になった為、2年後は鹿児島に戻り、私は中学3年、尚は小学校6年に編入しました。
 
私と同様、日本に帰って日本の学校に馴染むのに苦労し、英語ができると言う事でイジメらしき事も経験した妹ですが、無事中学に進み、公立高校に入学する事もできました。ですが、大学の推薦を落ち、一般入試で大学を受けようにも専攻が決まらなかった為、浪人して1年(もしくはもっと?)時間を費やすよりは、という事で、私がその時既に通っていたアメリカ、ワシントン州の短大に入ってきました。
 
短大後、私は4年大に編入したのですが、昔からファッションに興味があった妹は、ヘア・メイクアーティストになろうと思い、ロサンゼルスのビダルサスーン専門学校に行く予定でした。そして入学金まで払ったのですが、ビザの種類が違って、申請してもなかなかビザが下りなかった為、入学金は返金してもらい、短大を卒業後夏休みに日本に帰った後、アメリカに戻る事はありませんでした。
 
日本にいる間にもファッション関係をしたいという夢が捨てられなかった妹は、東京に良い専門学校があると聞いていくつか見学にも行きましたが、東京が肌に合わず断念しました。そんな時、ファッションだったらパリかミラノが良いかも、という母の勧めで、丁度その時パリから1時間半の所にいた叔母の所に3ヶ月居て、パリの学校とミラノの学校を見に行き、ミラノに行く事に決めました。ミラノの語学学校に6カ月行っている間、知り合った友達の友人に、「将来的に仕事を見つけたいならマランゴーニがいいよ」、とアドバイスを受け、最終的に4年制のファッションデザイン学校、マランゴー二に行く事にしました。
 
イタリアでの就職
卒業後、「うちに研修(インターン)に来ませんか?」と言ってきたのが今いる高級ブランドバッグの下請けの製造会社、Renato Cortiです。入社したのは2003年でした。学校に4年通っている間、将来ファッション関係で働きたいとは思っていましたが、絵があまり上手ではない自分にデザインの才能はないと思っていました。そんな妹が採用された役職は、プロダクトマネージャーのアシスタントです。そこで研修している3か月は給料無しで働き、その後無事採用されました。
 
仕事を始めて大変だったのはやはり言葉です。学校でもほぼ友人言葉で良かったのが、サプライヤーには敬語を話さなくてはならず、慣れない話し方に苦労しました。また、人間関係も大変でした。高級ブランド製品は全て手作りの為、デザイナーがデザインしても職人さんがちゃんと働いてくれなければ製品ができません。なので、下っ端で外国人だけど、なめられないように職人さんに働いてもらう、という事に苦労しました。
 
Renato Cortiには、ミラノに150人、フィレンツェに250人ほど社員がおり、そのうち革バッグを作る職人は40人ほどだそうです。妹は入社してからは2度昇進をし、現在妹はプロダクトマネージャーとして11人の部下と共に働いています。妹の仕事は基本的にその中の大手一社のクライアントの要望に合ったバッグを作る事です。
  
仕事内容
Renato Cortiでは、現在高級ブランドバッグ会社3社用にバッグを作っていますが、妹の仕事は、バッグの仕様を高級ブランドのデザイナーと話し合いながら作り上げ、職人さんと相談しながら製造する事です。妹のクライアントはパリコレクションなど含めて1年に6コレクションに出展する為、1コレクション毎に40程度コンセプトを決め、それをクライアントと話し合いながら15個くらいに絞り、最終的にはそれらのコンセプトに合ったバッグを80個くらい作ります。
 
妹は毎週パリに出張し、クライアントのデザイナーとミーティングをし、細かい製造の内容(どのような革、布、金具、ファスナーなどを使うか、どの位のコストがかかるか、など)を決めていきます。全て職人さんの手作りの為、デザイナーのデザインを元に、素材を決め、サプライヤーにオーダーし、職人さんに頼んで作ってもらいます。製品が出来たらデザイナーに見せに行き、コレクションまでに会議ごとにデザインを改善していくそうです。 
ちなみに、素材の値段からクライアントに売る値段を決めますが、クライアントは最終的にはその値段の5倍以上の値段で市場に出すそうです。
 
今後の妹の夢
 
妹も離婚を経験し、またコロナ禍に長年いた人とも別れ、大変だったのですが、その後なんと!自力でミラノにアパートを買い、今でもたくましく暮らしています。そんなこんなで妹の方がしっかりして頼りがいがあるので、姉の私が妹の所に長期で遊びに行ったりするとなんだかんだと色々面倒を見てくれます。妹の方がよっぽど姉みたいなんです。(笑)

妹の今後の夢を聞いたところ、今の会社は下請けなので、将来的にはブランドで働きたいそうです。そして、20年近くずっとイタリアの会社で働いてきたので、今後は日本のブランドとの架け橋にもなっていきたいそうです。妹はずっとイタリア人と働いている為、最近日本語が危うく、イタリア語なまりになってきていますが、真面目で、他の社員より早い、朝7時から毎日10時間ほど働く、働き者です。妹曰く、「仕事がとても好きで楽しい!」そうです。(余談ですが、ミラノはイタリアの中でも工業地区で、みんな時間には結構きっちりしています。)
  
もし日本でイタリアの高級ブランドバッグ製造会社と繋がりたいと言う方は是非妹に一度コンタクトしてみてください。(ちなみに妹は小さい時にアメリカにいたので英語の発音も良く、もちろんイタリア語もペラペラ、今では毎週パリで会議をしている為、フランス語も出来ます。)イタリアの会社と、きっと良い架け橋になってくれると思います。
 
尚に質問のある方はコチラへ。
Osakonao☆hotmail.com(☆を@に変えて送ってくださいね)
 
尚の働いている高級ブランドバッグ製造会社
Renato Corti

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妹の尚は姉の私が20年以上アメリカに住んでいるのに対し、もう20年以上イタリアのミラノに住んでいます。実はこの妹はアメリカで短大を出ているのですが、なぜその後イタリアに行く事にしたのか、イタリアとアメリカの好きなところ、嫌いな所、なども話しています。今回は姉妹配信ということで標準語だと他人行儀(?)になるため、鹿児島弁での配信となりますが、ご了承ください。そんな尚とのライブ配信はこちら。

ところで、このライブ配信の会話では、妹があまり苦労しないでイタリアに行ったように聞こえましたが、妹は実は昔のネガティブな事は結構忘れる癖があって、話している間に出てこなかったようです。まぁ、妹は小学生の時に母について海外(アメリカのシアトル)に行った為、語学はあまり苦労しなかったようですが。母によると、妹はアメリカにいるときに暇だったから、私たちが夜勉強しているときに図書館から借りてきた本をたくさん読んで、1年半(小学6年)でアメリカ人の中学3年程度の英語力があったそうで、その間一度も単語の意味を聞かなかったし、辞書も開かなかったそうです。
 
そんな妹のイタリアに行く前の短大卒業時のTOEICでは900点超えだったそう。小さい時に第二か国語を学ぶとその後他の言語習得も容易いのか、今ではイタリア語もペラペラですが、会社の仕事で毎週のようにパリに出張に行っていた為、フランス語も結構話せます。(でも私の周りの話を聞くと、小学校も低学年の数年だけ海外にいた人とかは結構忘れてしまうそう。なので言語習得に良いのは小学校高学年から中学校くらいかも)そんな妹でもやはり人生には紆余曲折があったようで、母から妹の過去の苦労した事の追加情報が届きました。
 
妹がアメリカの短大(Community College)に行った一つの理由はライブ配信で言っていたように、日本の大学は最初に専攻を決めなくてはいけないのがアメリカの大学の最初の2年はGeneral Study (一般教養)で、その間に何を専攻にするか決められる事。そしてアメリカの大学は自分の取りたい分だけ単位を取って行けば良いので、ゆっくり単位を取り何年もかけて卒業する人もいれば、一杯一杯取って早めに終わらせる人もいます。妹は後者で、2年かけて90単位取る所を1年半で取り終わり、卒業したのでした。
 
その後一旦日本に戻り、日本の大学への編入も考えたらしいのですが、編入の条件が「海外に2年以上いた事」だった為それに当てはまらず、やはりファッション関係に行きたいと思い、フランスとミラノののどちらかを考えたものの、親戚のいない(叔母がフランスにいる為)ミラノに行く事にしたと言う訳です。そして、全然イタリア語が出来なかった為(アルファベットも知らなかったらしい)、リンガドゥエという語学学校に半年行ってから、デザイン学校のマランゴーニ(4年間で経営も含めファッション関係全般をやる学校)に入ったそうです。
 
でもそのマランゴーニに入ってからが大変で、本当はデザイナーになりたかったものの、周りには小さい時から絵を描いていたような才能のある人が一杯いる。そんな中、自分は絵も描けないしデザインの才能もないという事がわかり、デッサンの先生には良く怒られて苦労したんだそうです。でも卒業制作で男性ものの衣装とバッグを作ったことで、現在働いているシャネルの下請けのバッグ会社の目に留まり、そこで認められて採用された。ただ、妹が言うように、最初はインターンシップで入った為、3か月給料無しだったそう。
 
そして今の会社に入ってからは直属の上司にしごかれて大変だったけど、社長がいい人で、またデザインの才能はないけど、品質管理や話していたようなコーディネーターとしての仕事で認められて今の地位を確立したようです。デザイナーにはなれなかったけど、自分の夢見ていたファッション業界に関わる仕事が出来ているし、自分の仕事が好きで誇りを持っているようなので、結果オーライと言ったところでしょうか。私の妹ながらすごいと思うのは、外国人で、女で、海外で管理職までのし上がり、12人もの部下を抱えて頑張っているという事。ちなみに妹が言っていたような男尊女卑の国、イタリアで、妹は元彼(イタリア人)の2倍ほど稼いでいました。
 
妹は呑気な姉の私と違ってしっかり者で頑張り屋なので、これからも好きな仕事で頑張って幸せになってほしいと思っています。



 

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