麗しのカバーガール

 君は天然色。

 あの頃の私たちは、みんな研磨される前の原石で、それでも今よりも輝いていた。

 中学生の頃、学校の先生から借りたカセットテープにあった大滝詠一氏の君は天然色。四方を山に囲まれた田舎の中学生の脳天をしびれさすには十分だった。ジャケット写真の明るいアクリル絵の具で描かれたリゾートホテルのプールサイド。その絵の中で大人になった自分を足してみたりした。

 まだ、恋に憧れるだけの、本当の痛みも喜びも悲しみも知らなかった、それでいてこの世のすべてを知ったような時を過ごしていた。見るものすべてが敵に見え、意味もなくガルルと吠え、噛みついていた。小さな水たまりの中から、広い海原も泳ぎ切れると信じていたペンギンのような娘たちの全力の反抗期を、力ではなく音楽と文学で支え受け止めてくれた若き先生たちに今はただただ感謝するばかりだ。

 思春期のはしかにかかったような時代、まだ見ぬ未来へ憧れつつ我慢だらけの日々を過ごしていた。大人になれば、自由になれる。学校からも親からも自由になって自分だけでなんでもできる。好きな服を着て髪を伸ばし、化粧だってする。かっこいい大人になって恋だって自由にできる。そう信じていた。そんな頃が、私にもあった。

 そんな夢物語を本気で信じている小娘たちに先生方はさぞや手を焼いたことだろう。社会も、世間も甘くない。年齢は大人になっても大人の世界はそんなに近づけない。地獄の門のように「この門をくぐるものは一切の望みを捨てよ」という厳しいものだと、わかったうえで、楽しかった大学生活を語って聞かせてくれたり、大人の入り口のような音楽や、小説を教えくれた。授業より授業以外の話のほうがよく覚えている。

 あれから時は流れ、私たちは大人になった。人並みに社会生活を送り、仕事をし結婚をし母になったものもいる。日々の生活に追われ、着飾るひまもなく仕事をし、家事をし、子どもに追われている。自分のことよりも人の心配ばかりしている。私はあの頃思い描いていた「おとな」になれているだろうか。憧れていた大人と、現実とのギャップに打ちのめされることもあった。人と自分を比べるのをやめ、自然体で生きていたいのに、人を羨み妬み心がつぶれそうなこともしょっちゅうだ。それでも、今を必死に生きている。そんな自分、嫌いじゃない。

 たまにあの頃を懐かしく思い出し、思春期の恥ずかしさに身悶える。あほで生意気で全力で生きていた化粧っ気もない少女たちはまさしく天然色だった。思い出の中で無邪気に笑う麗しのカバーガール。

 時は流れても、永遠に麗しのカバーガール。


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