紫煙
クリーンな世の中になってしまい、煙草を目にすること自体が減っている。「煙草は好きだけど、後に残る臭いが嫌なんだよね」こう思う人は多いだろう。
しかし、煙草を吸う行為、それにまつわる仕草。そんなに悪いものではない。
「あ、煙がそっちいっちゃうね。ごめんごめん」そういうとボスは雨の降る庭の端へ歩いて行った。その場に煙草の煙が漂っている。さっきまで雨の庭に出て薔薇の新芽の手入れをしていた私に、「煙草はやめましたが、流れてくる煙草の煙は好きです」と、彼は言った。吐き出した煙ではなく流れていた煙草の残り香のことだ。「わかります」私も昔は煙草を吸うまねごとをしていたのだ。試合に勝つために息が続かないのでやめたのだ。紙巻きたばこの紙が燃えるにおいと煙草草のいぶされるにおい。ボスが庭の端に行ってしまったので漂っていた紫の煙は雨に紛れてすぐに消えた。
薄青い煙のにおいは、胸の奥をちりちりと焦がし泣きそうな気分にさせた。
背の高い彼が、私に背を向けその広い背中をかがめ燐寸で火をつける仕草が好きだった。煙が私にかからないように、そのままその場を離れる後ろ姿を見送るのが寂しくもあった。煙草を吸い終わって私のもとに戻ってくる時間がもどかしかった。七夕よりも少ない回数しか逢えない人だから。次に逢えた時は煙のにおいも一緒に覚えておこう。あの人のにおいだから。離れてもすぐに見つけられるように。
春になれば、ここも色鮮やかな庭になる。茨も花芽をつけるだろう。夏紅葉の緑も紫陽花も芽吹くだろう。
所縁のないこの土地でなぜあの人を思い出しているのかわからない。
あの人が吸っていた煙草の名前も知らないのに。
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