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先生には見えとらんのやろうか

 合気道を習い始めて4年がたった。順調にいけば今頃黒帯の審査のため、規定の技、指定技、自由技という乱取りを稽古しているはずだった。乱取りは10本程度の技を連続でかけるもので、かけるよりも実は受けるほうがとても大変だ。そのために体力付けないとな・・・と楽しみにしていたものだ。が、新種のウィルスのせいで世の中がすっかり変わってしまった。人との距離をあける、接触を減らすということで私の師事している同上では体術が禁止となり合気杖術の稽古になった。稽古ができるだけでも十分だ。と思おうとするが、時折「なんであれがよくてうちがだめなんだ」と呪詛の言葉を吐いてしまう。言ったって変わらんのだからどうしようもないし、これで万が一感染者が出たら、稽古する場が借りれなくなる。今のできることをコツコツと・・・自分に言い聞かせているのだが。やっぱりもやもやするよね、人間だもの。

 こういった状況で稽古が再開され10か月。合気杖術の稽古を始めて10か月ほどたった。杖は楽しい。武器使ってる、という攻めている感がたまらない。最近は、審査技も意識しての杖体術も稽古している。杖体術は徒手の技を杖に置き換えて行うもので、「杖=手の延長」と考える。諸手の投げ技を杖で行うのだが、相手の反射運動とこちらの動きを悟られずにうまく投げるのが難しい。通常、棒状のものが目のまえに出てきたら相手は咄嗟に掴みにくる。そして、その棒状の武器を取り上げようと引っ張る。その力を利用して捌いて投げる。と、言葉で説明するとこれだけのことだがこれが難しいわけで。杖を扱うには体の正中線から外さないことが肝だと思っっている。杖の端を持つ側の手を自分の正中線から外さない。これまでの技も、ほかの武道もそうだった。そうして、相手の掴んだ杖を持ち上げ体を崩してから投げる。久しぶりの投げ技なので受けが下手だ。前方回転受け身で前転のように受けるのだが下手になっているので背中から落ちること度々。投げられては起き、起きては投げられ。これだけで結構な運動量である。くたくたになりながら終える稽古は清々しい。楽しい。

 何度目かの杖体術の稽古で先生と組めることになった。指導してもらえるいい機会だ。稽古はきついが嬉しい。ほかの人が稽古していること指導されていることをきき、自分の時に実践する。どうしてそう動くのか、この時どう足を捌くのか。さぁ自分の番だ、と張り切って先生に向かう。しかし、淡々と技を受ける。こちらが受けるときも粛々と。突いては捌いて投げ、掴んでは投げられる。ひたすら回数をこなす。そして、稽古が終わる。

 くたくたになる稽古は清々しく楽しい。楽しいけども・・・。

 今日、先生と話してないやん。先生から声かけてもらえてないんじゃ・・・。先生に教えてもらいたいなぁ。これでいいのか、あっているのか、間違っているのか。

 もしかして・・・。教える価値がないのか? そう・・・なの? 

先生には、見えとるんやろうか。先生、私のこと見えとる?

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