褒める事の価値とは

近年、褒める事の価値が子育て本やSNSでバズる投稿などでよく語られている。
確かに褒める事で笑顔になり、生き生きするという事はよくある。
しかし「褒める」という手段には大きな落とし穴があるのではないかと思う。

まず第一に「褒める事そのものに価値がある」という認識は間違いなく誤りである。
最も着目すべき点は褒め方にある。

そしてこの話をするに当たってキーワードになってくるのが、条件付きの肯定だろう。
条件付きで褒める事は場合によってマイナスに働いてしまう可能性があるという話である。

テストで良い点数を取った、偏差値の高い学校入学した、クラブ活動で良い成績を収めたなどの結果に対して褒める事というのは時に相手に対してプレッシャーを生む。
つまりそれができなかったらあなたには価値がないというメッセージに受け取られてしまう場合がある。

正確に言うと、良い結果を褒める事自体が悪いというよりは、良い結果が出た時だけしか褒めないという事に大きな問題があるように思う。
それも相手にとって良いと思える結果かどうかではなく、自分にとって都合の良い結果である場合だけ褒めるという褒め方はたちが悪い。
おだてて利用するというのはまさにこういうやり方でこれは肯定を餌にした支配である。

結果が悪くても結果のために努力をした過程を褒める事で失敗に対する抵抗感が減る。
もっと言うならたとえ相手が努力をしなかったとしても相手が存在している事自体に価値があるというメッセージを伝える事で、根っこにあるパーソナリティの土台の構築に役立つ。

これはそう簡単にできる事ではないだろう。
特に努力をしていない相手を肯定するというのはよほど自分の心に余裕がない限りできない。
本来であればこの手の肯定を幼少期の頃に親からしっかり感じられる事が望ましいが、少なくとも日本においてはそれを感じられずに育った人の方が多いだろう。

「褒めて欲しい!」と公言する人、もしくは公言しなくても明らかに褒めて欲しいのが分かる人というのがいる。
そういう人に対して「相手が望むのであれば!」と思って良いところを見つけて積極的に褒めたとしても「もっと褒めて!」という次なる要求が止まらない事が多い。
これは褒められる為の条件を自分で作り出してそこを褒めるように促すというような状態である。

しかしこういう人たちが本当に欲しているのは無条件の肯定である。
自分が理由なく存在していて良いと思える精神的な土台が欠けており、精神的に飢えている。
本人も飢えている事は感じているのでそれを満たす為に承認や賞賛を求めるが、本人が条件付きの肯定しか知らない為に本当に欲しているもの(無条件の肯定)を求める事すらできない。

しかし親でさえも無条件に肯定する事が難しい今の日本の社会で、親以外から無条件に肯定してもらうというのは現実的にかなり難しい。
最終手段としてはやはり自分で自分を肯定する流れに持っていくという事であろう。

その一歩としてまずは現状をできる限り詳しく把握する事が重要である。
自分が飢えている事、飢えた末にどういう行動を取っているか、なぜ飢えているのか、そういうものを細部まで知って整理する事で少しずつ向かうべき方向が見えてくるだろう。

人それぞれ違った遺伝子を持って違った環境に生まれているにも関わらず、愛情飢餓の人たちの行動パターンにはある程度共通点がある。
特有の行動パターンがある。
それを知っているだけでも自分の現状を把握しやすくなるのでは?と思い、この手の内容のnoteを引き続き書いていこうかなと思います。






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