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『冷戦後の日本外交』高村正彦

『冷戦後の日本外交』高村正彦、兼原信克、川島真、竹中治堅、細谷雄一、新潮選書

 石破茂新首相はそれほど防衛、外交に詳しくないというか、なんとなく危うく感じているんですが、そのわけがわかったような気がしました。

 福田内閣の高村外務大臣に「アフガニスタンに輸送用ヘリを送ってくれ」という要請が届いたことがあったそうです。そのきっかけは石破氏が防衛大臣の時のカウンターパートであるゲーツ国防長官から「ヘリ部隊を出せないか」と聞かれ、「自衛隊の能力としてやってやれないことはない」と無責任に答えたこと。その結果、米側は「日本は自衛隊を出す用意がある」と期待が高まり、ブッシュ大統領から直接要請する寸前だった、と。

 《石破(茂)防衛大臣とゲーツ国防長官が会談した際、ゲーツ長官が「ヘリ部隊を出せないか」と聞いたら、石破さんが「自衛隊の能力としてやってやれないことはない」と答えたことです。石破さんは、自衛隊としてやろうと思えば能力的には可能、と返答したに過ぎなかったと思いますが、アメリカ側は「日本は自衛隊を出す用意がある」と受け止めてしまった》というのが本文(k.2010、kはkindle番号)。

 安倍内閣の幹事長時代、石破首相は芦田修正を採って集団的自衛権論議を進めようとしていたのですが、当時の高村副総裁は、それは無理筋で、1959年の砂川事件最高裁判決を根拠にしようと進言したそうです。立憲主義は憲法の条文と最高裁判決に基づくべきだ、と。

 芦田修正とは1946年に衆議院憲法改正小委員会の委員長だった芦田による憲法9条2項への文言挿入を指し、これにより第9条について「自衛のためなら何でもできる」と解釈できる余地が生じたものですが、最高裁や政府も一度も採用したことのない解釈。

 これに対し、砂川事件の最高裁判決は集団的自衛権の一部容認の論理を15人一致で出しています。その後、ベトナム戦争の激化によって、自衛隊が巻き込まれる恐れが出たことによって、慎重な解釈を示すことになっていったというのが流れだった、と。しかし、60年代には指揮権が国連にある限り自衛隊も国連軍に参加できるというのが内閣法制局の立場だったといいます。その後、内閣法制局に防衛庁、防衛省からの官僚が長らくいなかったことなどから、集団的自衛権については全否定になっていった、と。

 砂川事件の最高裁判決と佐藤政権による集団的自衛権の抑制についての本文は以下の通り。

 《1959年の砂川事件に関する最高裁判決を踏まえてこう言いました。最高裁は国の存立を全うするための自衛の措置は認められるという一般法理を明らかにしている。従来の政府見解はこの判決の一般法理を引き継いでいる。ただし、当時の安全保障環境に当てはめて「個別的自衛権は必要だが集団的自衛権は必要ない」ということで通してきた。安全保障環境が変わって、国の存立を全うするために必要な自衛の措置に、国際法上、集団的自衛権と言わざるを得ないものがあれば、その限りで集団的自衛権は認められる、と》(k.2345)

 《砂川判決を書いた田中耕太郎長官は、条約優位論、国際法優位論で全裁判官を説得しようとしたけれど、おそらく説得しきれなかった。私の推測では、ですよ。だから、将来私が利用することになる集団的自衛権の一部容認の論理を15人一致で出したんですよ。最高裁の民主的な仕組みでそういう結論になっているなら、これに従うよりしょうがないじゃないですか。学者は何でも言えるんですよ》(k.2401)

 《ベトナム戦争、さらに第二次朝鮮戦争が起こったら、自衛隊が派遣させられるんじゃないかという懸念が、60年代半ばの佐藤栄作政権の時に出てきた。それまでは内閣法制局の中でも、現行憲法下で自衛隊の国連軍への派遣もできると言っているんですね。実は60年代前半に内閣法制局の中での検討では、指揮権が国連にある限り自衛隊も国連軍に参加できる、としています。それが佐藤栄作政権になって、私が見た限りは、予算を通すために野党と妥協した》(k.2566)

 それにしても自衛隊のヘリ部隊をアフガンに出すことは「やれないことはない」と無責任な発言したり、集団的自衛権の問題でも、無理筋な芦田修正を根拠にしようとしたり、自分では専門知識があるように振る舞っていますが、ちょっと危ういな、と感じます。

 大物政治家のオーラルヒストリーは単行本として出されるのが普通ですが、この本が選書という形になったのは、高村氏だけでなく元外務官僚の兼原信克氏も進行役の枠を超えて重要な発言を繰り返しているからだと思います。ちなみに《兼原さんは平和安全法制の論議が続いていた間ずっと、私と安倍総理の間をつないでいてくれた》とのこと。

 高村氏《私は英語でこんにちはも言えない人なんですが、本当に大事にしていた通訳が死んじゃったんですよ、リンガバンク社長の横田(謙)さん。彼が死んじゃったって聞いて、もう俺は外務大臣できないなと思った》とのことで、政務次官1回を含む三度の外務大臣時代は、通訳と官僚に支えられていたんだな、と(k.1466)。しかし、当時は英語が喋れない外務大臣も通用していた時代だったんですね。

 あと、中東情勢が緊迫する中、ゴルダ・メイア首相の「イスラエルは世界の人に同情されながら死んでいくより、嫌われながら生きていく道を選ぶ」という言葉の引用も改めて考えさせてもらいました(k.825)。

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