『シリーズ歴史総合を学ぶ3 世界史とは何か 「歴史実践」のために』小川幸司、岩波新書
『シリーズ歴史総合を学ぶ3 世界史とは何か 「歴史実践」のために』小川幸司、岩波新書
世の中には偉い人がいるもんだな、と改めて思ったのが『シリーズ歴史総合を学ぶ3 世界史とは何か-「歴史実践」のために』の著者の小川幸司教諭。
古くは網野善彦さんも元は高校教師でしたし、平山優さんも今年まで高校で教えておられたと聞いていますが、なんといいますか、歴史学には一隅を照らすような方々が連綿と続いているんだな、と。この本の中で、小川さんは、従軍経験を経て都立広尾高校で世界史を教えるようになった吉田悟郎(1921-2018)、都立町田高校の教壇に立った鈴木亮(1924-2000)もあげています。
ぼくは広尾の出身なんですが、吉田悟郎さんは高校の屋上に生徒を連れていき、庚申塚・板碑・中国人留学生が学ぶ学校を指さし「世界史の授業は、この地域から始まる」と宣言したそうです。庚申塚・板碑はおそらく吸江寺に近い白根記念渋谷区郷土博物館にそばにあるものだと思いますが、今年中に探してみようと思いました(小学校の通学路だったのに、まったく覚えていません)。
小川さんは松本サリン事件について、当事者の生徒を交えての図書館ゼミを開いたことや、映画『ショア』の上映会も行って《傍観者とは、みて見ぬふり》をするというよりも、「事実」を見ようとしない生き方》とするあたりを最初に語るのも熱いな、と(p.12)。そうした問題意識は冷戦下での二項対立のようなものではなく、幾重もの世界観が対立するようになった中で、傍観者として相対主義に陥ってはならない、というものだと思います(p.22)。
こうしたことを恐れるのは《歴史認識をめぐる激しい対立が起こっているとき、自分とは相容れない歴史叙述に対して、その事実をめぐる解釈の誤りを批判するとともに、その解釈が引き出されている相手の世界観・人間観をもっと厳しく批判しがちになる》という見立てにも通じるのでしょう(p.56)。冷戦が終わり、高度成長のハイウェイから降りた終わりなき日常は、意外にも厳しい対立にさらされる世界だったのかもしれません。
オーストラリアとニュージーランドが第一次世界大戦で、エーゲ海の小さな半島で戦った「ガリポリ」によってそれぞれの国民意識を生む神話となったというのも知らなかったです。そういえば、『マッドマックス』で一躍有名になったメル・ギブソンが主演を務めた『誓い』(原題:Gallipoli。ピーター・ウィアー監督、1981)があったな、と思い出しました(p.170)。
小川さんはベンヤミンから影響を受けていると何回も書いているんですが、映画などの複製技術はオーラをそぎ落とすことで芸術の大衆化を可能にするとともに、芸術の価値が見失われて政治に利用されるという『複製技術時代の芸術作品』を紹介して《「歴史」にもオーラがあるのではないでしょうか》と問いかけ、「遠さ」を実感することの重要性を指摘します(p.197)。
第五講「グローバル化」の中では「犠牲者ナショナリズム」についても触れるとともに(p.214)、朴春琴のように戦前は朝鮮人の帝国議会代議士もいたのに、国民の範囲を狭くした第二次大戦後の国民国家の再編はどのような特徴を持つのかと問いかけます(p.237)。
小田中直樹『世界史の教室から』大きな影響を受けているというあたりも好感度アップ(p.113)。
杉原薫『世界史のなかの東アジアの奇跡』も読んでみようかな、と思いました。
高校の歴史学習における問題は日本史や世界史の授業が「分類学」に立脚して行われてきたことだ、という「新しい見方」と出会う歴史教育とは?(話題提供:長野県蘇南高等学校 校長 小川幸司もご参考までに。
小川さんの、高等学校の世界史の講義に基づいて書き下ろした『世界史との対話――70時間の歴史批評』(全3巻、地歴社、2011-12年)も機会があったら読んでみようかな、と。
<目次>
はじめに
第1講 私たちの誰もが世界史を実践している
1 どうしても世界史を学びたかった経験
2 私たちの歴史実践と二つの世界史
第2講 世界史の主体的な学び方
1 歴史実践の六層構造
2 世界史という歴史実践の再検討
3 歴史対話の五つの方法
第3講 近代化と私たち
1 奴隷や女性を主語にした歴史叙述の試み
2 人種主義に着目して国民国家を再考する
第4講 国際秩序の変容や大衆化と私たち
1 不戦条約を世界史に位置付ける
2 戦争違法化の歴史から「問う私」を振り返る
第5講 グローバル化と私たち
1 二〇世紀後半の民族浄化と強制追放を見つめる
2 ガザ回廊から二一世紀の日本へ
まとめ 世界史の学び方一〇のテーゼ
おわりに
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