見出し画像

西洋のYesと日本のYesの違い(By The Povertist)

画像1

Original article: The Povertist
1 August, 2016 by Ippei Tsuruga

日本は組織、西洋は個人で仕事をする

開発途上国の援助を生業としていると、否が応でも世界中のプロフェッショナルと仕事をともにすることとなる。その中で日々感じることは、西洋のYesと日本のYesはずいぶん異なるということだ。もちろん一概に西洋とひとくくりにするのは乱暴ではあるが、あくまで私が経験してきた中で感じた「平均」の話である。

会議をセットする場合を考える。日本人の感覚としては、外部の機関と会議をする場合、まず内部の会議で対処方針を固め、組織としてどういう意向を持っているかまとめ上げる。その上で会議へ望み、相手機関に対して意向を伝える。組織対組織の会議が前提だ。

一方、西洋人(少なくとも北米とラテン系)と会議をする場合、驚くことがよくある。テンポよく打ち合わせが進んでいると思って聞いていると、「I(私)」という言葉が必ず出てくる。「私はこう思っている」という言い方をしているわけだ。日本人の感覚としてはありえない。組織のトップでない限り、組織を代表して代弁するのだから「We(私たち)」が主語となる。

ここには大きな隔たりがある。西洋人はあくまで、自分がどう考えているかを伝えることを会議の目的と考えていて、組織の意見は「上の者」が最後にトップ同士で話して決めればいいと考えていることが多い気がする。自分の知らないことに話が及ぶと、「私の担当外なので分からない」と平気な顔で言う。あとで確認して回答するというのであれば話は分かるが、たいていの場合そのあとのフォローはない。組織の代弁者としての責任感はないわけだ。

会議へ望む前の準備状況にも大きな差がある。日本人が内部会議で組織決定を経たうえで発言・応答要領を手に会議へ望むのに対し、西洋人はコーヒーだけ持ってくることが多々ある。西洋人が下っ端の場合、本当に個人の見解を述べるにとどまる。こういう状況の場合、こちらは組織見解を述べているのに、相手は自分の感想を述べる「ブレスト」に終始し、会議のための会議となってしまう。

こんな感じだから、西洋文化の強い組織(特に官僚機構)との会議に出席すると、「会議ばかりやって何も実際の案件に直結しない無駄な時間」と日本人は感じることが多いはずだ。

一方、西洋人は日本人のことをどう思っているのだろうか。「自分の見解を述べず、組織見解ばかり語っていて面白くない」といわれることが多い。感覚が全く異なる。

西洋文化の良いところもある。例えば、書籍の編集委員会での一幕。日本側は、事前に原稿にすべて目を通し、下の者がコメントを作成し、組織の代表が応答要領に沿ったコメントを出す。一方、西洋人は組織見解は聞きたくなく、個人の見解を聞きたいという。議論が盛り上がるのは当然後者というわけだ。

西洋文化の弱点は、その人がいなくなると、これまでの議論がゼロに戻るということだ。日本の場合、下っ端から議論を積み上げて、トップが代弁するわけだから、トップが誰であろうと組織の見解は揺るがないことが多い。

この違いは、「日本は組織力があり、西洋は個人力がある」とよく言われる理由につながると感じる。一長一短で、どちらが良いとは言えない。ただ一つ言えるのは、前者がオペレーションの実行能力があり、後者はイノベーションに向いているということだ。

会議文化の隔たりは、相当大きい。これを理解しておかないと、西洋と日本はいつまでもどちらかが我慢しなければならない状態が続く。日本は常に少数派なのだから、たいていの場合日本側がフラストレーションを抱え、終わる場面が多い。

しかし、この違いを双方が認識し、お互いの良いところを生かして仕事することができれば、より生産的な仕事ができることは間違いない。

どうやってこのギャップを埋めたらよいのだろうか。

やはり会議をするしかないのだろうか。


画像1

※The Povertistは、開発途上国の貧困問題を深掘りするオンラインマガジンです。(提携先としてi&i Impactが転載している記事以外を読みたい方は上記バナーから。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?