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怡庵的 徒然なる日々 時には主役で

   改札を出たところで思った。今、何かしら口に入れておかな
   いといけない、と。いやしんぼうの考えそうなことだ。しか
   し、一旦仕事場に入ってしまったら、いつ食べられるか、そ
   の保証はなかった。

   頭でそうわかっていても、胃の方は受け付けてくれるだろう
   か。朝からずっと、拒み続けていた。

   これといった考えも浮かばないまま、通い慣れた裏道を半ば
   無意識のうちに歩き出した。明るい陽射しにふと目を向ける
   と、店の名を緑に染め抜いた白の麻暖簾がさがっていた。そ
   こは大人の社会の片鱗をまだ青臭い若造に教えてくれる場所
   だった。
 
   「寿司か。寿司なら大丈夫かもな」と身体に問いかけながら
   扉を引く。頑強な身体つきの大将の威勢のいいダミ声に迎え
   られ、カウンター席に座る。時分どきを過ぎていたせいか、
   相客はいなかった。

   さて。何が食べたい。こんな体調で生ものをいって、下手を
   すれば人に迷惑をかけることになりかねない。

   ここはおとなしく、

   「かっぱ巻きを」、と。

   優しくほほえんだ顔で返事をしてから、
   「出発は今夜でしたか」と尋ねてくる。
   「ええ。成田九時発のエール・フランスで」
     冷えて心地よいおしぼりで手を清めながら、ことばを返す。      

   「ちょっとだけ日本とお別れですね」
   トランクをずりずりと無神経に店の中に持ち込んだのを見て
  、話をふったのだろう。いつもと違って無口な上に思いつめた
   ような表情だったからか、それ以外何もふれない。それが大
   将である。

   程なくして、
   「はい、お待ち」
   “ゲタ”に乗せられて、それは出てきた。

   いつもの巻きものと変わるはずないのに、妙に美しいと思っ
   た。柾の目のつんだ一枚板のカウンターの向こうに置かれた
   “ゲタ”は節の多い板目。その上に、かっぱ巻きは切り口を
   上にきちんと乗っている。海苔と白飯、そして胡瓜という潔
   い彩のよさ。切り口のみずみずしさ。一つ口に入れてみる。

   歯に当たって、たちまち海苔の匂いが広がる。パリッとした
   歯ごたえ。酢飯そして胡瓜が山葵とともに追いかけてくる。
   まだ、臍を曲げている胃と相談しながらゆっくり、ゆっくり
   惜しむように食べる。実際、目前から一つ減り、二つ減りし
   ていくのを見て惜しいと思った。当分お預けををくうと思う
   と余計うまかった。

   巻きものが減るに従って、胃の方がおとなしくなっていった。
   この選択に満足してくれたようだった。すると、何かもっと
   いけそうな気がした。

   残り僅かなのを見て、心していただこうと改めて思った。手
   に取っても海苔はまだ、出された時のままだ。寿司屋のそれ
   は、そんじょそこらのとは違うんだとどこかで聞いた自慢話
   を手触りが思い起こさせる。そのきちっとした形に江戸の“
   粋さ”すら感じる。こうやって手に取り、口に近づけると胡
   麻の匂いがふっと鼻をかすめる。やっぱりうまい。ここまで
   うまいと思ったことがあっただろうか。「かっぱ巻き」はい
   つも脇役だった。

   いつもなら白身のヒラメあたりから握ってもらい、トロで約
   束のようにクライマックスを。そして、口をさっぱりさせた
   くて最後はいつもの「かっぱ巻き」を注文する。どこか「か
   っぱ巻き」には脇役感が漂っていた。

   その脇役に救われた気がした。すっかりおなかに収まった時
   は、まだくちくはないはずなのに、もう十分だった。

   それに、なんだろう。気がつけば、この高揚感は。さっきま
   で胃とチャンバラしていたのが、嘘のように消えていた。何
   かがふっきれたような感じがした。スキップさえできそうだ
   った。

   「帰ってきたら、また寄らせてもらうから」
   「気をつけて、行ってらっしゃい」

   大将と女将の声に送られて、外へ出る。まだ、九月の陽は暑
   かった。

   この夜、無事に九時発パリ行きの飛行機の乗客になっていた。
   生まれて初めてのヨーロッパ。オランダ、ベルギー、フラン
   スが待っていた。

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