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≪スターバト・マーテル≫ 知子へ

 この記事は、2022年4月8日に公開されたMikhail Lopatin氏による"«Stabat mater»: To Satoko"を日本語に訳したものです。
 翻訳にあたり、原著者のMikhail Lopatin氏に了承をいただき、公開の許可を得ております。
 インタビュー内容を転載、引用する場合は、転載元を示す本noteのURLを付記願います。※全文の転載はおやめください※

著者:Mikhail Lopatin

英語による元記事
«Stabat mater»: To Satoko

導入:過程としての音楽及び結晶としての音楽

 独創的で、微に入り細を穿つ振付を詰め込み、非常に興味深い音楽を使ったフィギュアスケートのプログラムは星の数ほどありますが、(振付と音楽の)2つの層の間の相互作用はほとんど、もしくは明らかにされていません。

 音楽は大抵、振付の内容に対する心地よい背景や、美しい額としての役目を果たしていますが、実際にはお互いに影響しあい、話をすることは決してないでしょう。音楽は絵から離れ――そして端の方に追いやられてしまっています。(※著者による補足1)

 ※著者による補足1
 It is left out of the picture — and pushed towards the margins. 美しい額の役目を果たす音楽は、絵画である振付から離れてしまい、顧みられることもなくなっている。音楽はもはやプログラムの中心を果たすものではなくなっている、の意味。

 最も目立ち、表現力が豊かな音楽の勢いとジェスチャー(※補足1)に乗るような、表面的なレベルで音楽の流れを追う振付のプログラムはかなりの量があります。重要な音楽のアクセントを増幅させるジャンプ、音楽構成の繰り返しを強調するスピン、根底に流れるリズムのパターンを追いかけ、補完するステップ。ここでは、言わば”過程”として、振付は音楽と相互に作用しています。音楽がA地点からB地点へ、そしてC地点へと進むのに合わせて振付も時間の経過とともに展開し、(音楽の)最後まで続きます。


(※補足1)Wikipedia訳
Musical gesture 
musical gestures=音楽のジェスチャー、身振り

 音楽におけるジェスチャーとは、物理的(身体的)または精神的(想像上の)なあらゆる動きのこと。音を生み出すために必要とされる動きのカテゴリーと、それらのジェスチャーに関連している知覚的な動きのカテゴリー両方を含む。音楽ジェスチャーの概念は、ここ最近、様々な音楽学分野において多くの注目を集めています。(例;楽曲分析、音楽療法、音楽心理学、音楽表現の新たなインターフェース会議等)
 例えば、主音Cメジャー(ドミソの和音)から属音Gメジャー(ソシレの和音)へ移動する“音楽的な”動きは、ピアノ上で最初の白鍵盤から右の4つの鍵盤へ移動する(間を空けて、ピッチが上がる)物理的な動きを必要としています。したがって、ジェスチャーには、演奏者による特徴的な身体の動きと、その動きによって生み出される(あるいは生み出している)特徴的なメロディー、フレーズ、コード進行、アルペジオの両方が含まれています。

 このようなプログラムでは、振付と音楽の関係に高度な”即時性”があります。――音楽が伝えるべきもの全てに対して、今、その瞬間に振付が応えています。下記に挙げた例では、スケーターのスパイラルは、2つの声が織りなす意味深長な不協和音を強調しながら、繰り返す旋律の構造に反応しています。より印象的な2つ目のスパイラルが音楽の全フレーズの中で最も高音の部分を強調させながら、振付と音楽が同時に最高潮に到達しています。この音楽のフレーズが終わると、振付も一段落します。振付は対となる音楽構造と絶え間なく対話し、相互に作用しあいながらこのように展開します。音楽と振付は絶えずお互いを見て、お互いを模倣しているのです。これが、私の唱える「過程(process)」として音楽と相互に対話する、ということです。

 最後に、より深い構造レベルで振付が音楽を反映している非常に細かなプログラムの一部が別に存在しています。――それは「結晶(crystal)」として音楽と反応します。(ここで言うcrystalは、”構造(structure)”、”形状(shape)”のことを指します。The architecture of music(音楽の建築、構造、構成)とも言えます)音楽―振付の相互に作用する即時性は依然として存在する可能性が非常にありますが、それだけではありません。振付が、こっちの音楽形状、あっちの音楽形状を石膏でコピーのようなものを作りながら、取り囲む音楽構造に自分自身をはめ込んでいる――その限界点 と一連の内部主題を忠実に再生産している、ということが言いたいのです。ここでは、即座に反応することに加えて、「距離を取っている」構造的な関係があります。――構成全体の様々な部分にまたがる反復する音楽を模倣する振付の繰り返しなどがそうです。(※著者による補足2)

※著者による補足2
 「限界点」とは、構造変化のことを指す。一つのフレーズが終わり、新しいフレーズが始まること。2つのフレーズが接触することで、構造変化を生み出している。あるいはより大きなスケールでは、一つのセクションが終わって新しいセクションが始まること。一つのメロディーが終わって新しいメロディーが始まることなどがそれに当たる。
 念のために言うと、'thematic arcs'(一連の主題)は異なるセクションにまたがっているこの構造変化のことを意味する。同じメロディーだと分かるのは、既に同じメロディーを聞いたためであり、このメロディーの繰り返しが、全ての音楽構成の中で”arcs”(一連)、”bridge”(橋渡し)を生み出している。

 このようなプログラムでは、音楽性はより一般的にただ「音楽的」であること、音楽の勢いある流れに即座に反応するだけではなく――これら全てとは別に、音楽に「分析的に」反応できることでもあります。ですが、これは音楽がどのように構造的に機能し、どのように時間とともに展開し、どんな形を生み出すか、ある程度の理解が必要になってきます。これが、私の唱える「音楽の建築」ということです。
 振付の構造の音楽を分析的な理解を示すフィギュアスケートのプログラムはごくわずかです。宮原知子の「Stabat mater」は、主に元ネザーランド・ダンス・シアターの小㞍健太によって振付け(特別協力:本田武史、ステファン・ランビエール)されており、この貴重な――そして偽り無く高尚な――カテゴリーに属しています。

 では、この建物の中に入って、中に何があるのか見てみましょう!


(リンクが上手く動かないときはこちらをクリック)

Part 1:音楽の形式

 このプログラムの振付のアイデアを理解するためには、まず初めに音楽建築学の適切な理解を得ることなしには実質的に不可能です。必要なことは、音楽そのものを聞き、その内部構造を論ずることです。

 上記のグラフは可愛く、カラフルに見えます――少なくとも、そう見えると筆者は願います――しかし今のところこれではほとんど何も説明になっていません。辛抱強くお待ちください、読者の皆さん!出口はそう簡単に見つけられないものです。ですが、私が皆さんをこの色と言葉に満ちた複雑な迷路をご案内してみましょう。

 ペルゴレージ作Stabat materの第1楽章は、同名の中世のセクエンツィアの最初の3行に音楽をあてています。作品全体のうち、マリアが十字架の傍らに立ち、磔にされた息子の体を見守っているという主要な場面を描いています。:

Stabat mater dolorosa
悲しみの母は立っていた

juxta crucem lacrimosa,
十字架の傍らに、涙にくれ

dum pendebat fílius.
御子が架けられているその間

(訳注:日本語訳は下記Wikipediaより)
スターバト・マーテル - Wikipedia

セクエンツィア - Wikipedia

 ペルゴレージ作曲の音楽構成は、ざっと同じ演奏時間で区切って2つのパートに分割することができます。この二部形式の両方とも、ほぼほぼ同じ音楽要素と、前述した3行の詩がそのまま使われていることが分かります。第一パートの前部分には(詩のない)純粋な楽器のみのイントロ部分があり、後に続く第一パート、第二パートの主な要素がいくつか既に表れています。イントロ部分の冒頭(赤く色付けした箇所)は第一パートと第二パートの最初に再び姿を現します。


  結末部分(青く色付けした箇所)もまた、メインである第一パート・第二パートの全く同じ場所――最後尾――に再度出現します。

 異なっているのは中間部分だけです。イントロ部分は一つの主題部分(緑色に色付けした箇所)を提示しているのに対し、第1パートでは別のブロック(オレンジ色に色付けした箇所)になり、第2パートでは両方(オレンジ色+緑色)が組み合わされています。

 ややこしく聞こえますか?この無味乾燥なグラフと図式を、ペルゴレージの音楽に当てはめてみましょう。(動画がうまく再生されない場合はこちらをクリック)

 この音楽の“建物”の中には、重要な一連の主題があちらこちらに見られますが、そのうちのいくつかは知子のプログラムの中で最大限に強調されています。

1) 全ての3つのパート(イントロ部分+第1パート+第2パート)は、同じ音楽要素とともに始まり、終わる。

2) イントロ部分と第2パートは、中間部分(緑と青が合体している箇所)に共通する音楽要素を有する。

3) 最後に、第1パートと第2パートは、同じ主題部分(黄色+青に色付けした箇所)で締めくくられるが、これはイントロ部分には見られない。

全体をまとめると、全ての構造の形は、一曲を通して何度も何度も繰り返し現れる同じ音楽のモチーフが、多少順番を前後させながら生み出している”円環”なのです。

Part 2:振付の形式

A) 我が終わりに我が始まりあり:円環

(※訳注 我が終わりに我が始まりあり「In my end is my beginning」は、スコットランドの女王メアリーが幽閉中にクッションに刺繍していた言葉)

(※訳注 2023/3/24
斉藤基史 氏より、"我が終わりに我が始まりあり"は、14世紀フランスの作曲家、詩人ギヨーム・ド・マショーの有名曲のタイトルにもあると教えていただきました。
>ロンドー「わが終わりはわが始めなり」(Ma fin est mon commencement)

斉藤基史様、ありがとうございました!

ギヨーム・ド・マショー - Wikipedia

 音楽の構造全体が為す円環の形は、冒頭と最後のよく似た2つのポーズによって強調されています。知子が伸ばした両手と上半身で十字架を形作り、リンク中央に向かって滑り始めると、プログラムがin medias resで(物事の途中から)突然始まります。フィニッシュで、知子は氷の上に膝をついて360度回転し――ですが、彼女の手の位置は、指先さえもそうですが、明らかにスタート時のポーズの繰り返しです。

(訳注in medias res:「物事の中途へ」の意味。物語を最初から語るのではなく、物語の途中から語る文学・芸術技法のこと。)

 このシンプルな動きで、スケーターは果てしなく広がる一連の振付を作り出し、そして円環を閉じているのです――そして音楽も閉じています。

B)イントロ / 第2パート:ジャンプ

 プログラムの最初と最後に”韻を踏ん”で円のような形を作り出すことは、もちろん、他では絶対に見られないというわけではありません――好奇心旺盛な読者の方であれば、このスポーツの歴史の中から、たくさんの実例を見つけるでしょう。それをするためにペルゴレージの音楽を深いレベルで分析し、調査する必要はありません。ですが、次に上げる2つの実例は無視することができないほど構造的に類似しています。実例1は2つのダブルアクセルの位置です。イントロ部分(ダブルアクセル1回目)と第二パート(ダブルアクセル2回目)のピッタリと同じ地点、全く同じ音楽要素(それぞれのパートの緑色の部分の最後)の時に着地しています。これは単なる偶然の一致とは言えないでしょう!


 この記事の冒頭に書いた、私の考えに戻りましょう。ジャンプが音楽に全く乗っていないのは悪いプログラムだ、と言えるかもしれません。良いプログラムでは、重要な音楽のアクセントを強調しています。知子のプログラムでは、ですが、ジャンプは音楽のアクセントに乗っていません。ジャンプは構造全体の中で最後までずっと、非常に特殊な要素に”糊付け”されているのです。構造の様々なパーツにわたる音楽と振付の繋がりを、より深いレベルで組み立てています。特殊な技術要素と音楽の間にこの関係を作り出すためには、振付家とスケーター両方に、音楽の展開を構造的に深く理解することが求められます。

C)第1パート /第2パート:スピン

 もう一つの重要な一連の振付は、メインである2つのボーカル部分の間にあり、知子の2つのスピンによって生み出されています。根底にある考え方は本質的に同じです。同じように聞こえる(もしくは同一の)2つの音楽節の間にある類似性を強調させるために、似ているように見える(もしくは同一の)技術要素が配置されています。一つの構成が、もう一つの構成を模倣しているのです。

 上に挙げた例では、第1パートと第2パートの終わり部分(グラフの黄色に色付けした箇所)の最初の部分で2つのスピンが正確に始まります。ここで、対となる同じ視覚/振付を取り込んだ同じく曲で、音楽と振付の特異なつながりが再び見られます。この構造的相似は、第1パート、第2パートそれぞれのスピンに入る前に配置された2つの長いRBO(右足・バック・アウトサイド)のカーブによって、より一層補強されています。

終結部:知子へ

 このプログラムの音楽と振付の「結び目」を解いていき、更に全体の構成をつなぎ合わせている他の動きや技術要素を見つけ出すのは本当に面白いほど魅力的でした。

 例えば、この記事の最初あたりに述べた第2パートの2つのスパイラルは、第一パートの同じ音楽の部分と同期している振付が発展したものです。:あるいはプログラム全体を通して同一の音楽フレーズでのジェスチャーや動きがどれほど似ているかもそうです。ではありますが、結論は別のことで締めくくりたいと思います。

 自身のプログラムのうち、何よりも一番に全ての技術要素に焦点を当てているスケーターがいて――そのスケーターは、音楽と、そして振付と音楽の間にある繋がりについては必ずしもさほど関心を持っているとは限りません。

 自身の要素とリズム感を音楽に乗せる才能のあるスケーターもいます――音楽に合わせてジャンプを跳べ、音楽に合わせてスピンができ、音楽に合わせて体を動かせるのです。

 より深い感覚で真の音楽性を持つスケーターも、ごく少数ながらいます――音楽のニュアンスと情感を理解し、それらを自身のスケートに投影し、そして観客にまで伝えることができます。彼らは音楽を聴く才能があるのです。

 そして、ここに、宮原知子。観客を恍惚とさせ、ステファン・ランビエールを泣かせる”スケーターの中のスケーター”。フィギュアスケートだけではない、より大きなものを作り上げるためにネザーランドダンスシアターの元ソリストとコラボレーションを組んだのです――この作品はダンスの部類に入っており、より一般的に言えば”芸術的”なのです。

 先シーズンの最後に、静かに、そしてやや突然引退したスケーター。

 かなり控えめに言って、フィギュアスケートの世界で彼女のような演者はそう多くはいません――簡単に言うと宮原知子のようなスケーターはどこにもいないのです。

 知子の代わりはいません。


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 翻訳は以上です。翻訳、公開を許可してくださったMikhail Lopatin氏に感謝申し上げます。今回も英語から日本語に訳す際の質問にも丁寧に回答していただき、そのうちの一つを著書による補足として追記しております。

I really appreciate the original author Mr. Mikhail Lopatin for kindly allowing me to translate and share the wonderful article. Thank you so much for taking the time to answer my question. 

 感想やお礼の言葉はぜひ、Mikhail Lopatinさんへ!
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https://skating-to-music.blog/2022/08/04/stabat-mater-to-satoko/

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