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いのっちの電話から考察する「語る」ことと「語りだす」ことについて


語ることはその前提に、語る主体の他者に対する信頼があることを意味する。

「本書では、こういったさまざまな証人たちと、彼らが語ることを可能にする(または不可能にする)諸条件について論じたい。私の関心は、証人自身が「それ」をどう描写するかにある。証人自身が極限状態での過酷な体験をどうとらえるか。極限体験が彼らの語りの能力を本当に損なったのか、それとも損なわれたのはむしろ、語りの前提ーすなわち聞き手である他者への信頼ーのほうなのか。」
『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』カロリン・エムケ みすず書房 p29

語れない、という状況は、主体の他者に対する信頼が失われている状態である、とこの文章から読み取れる。


坂口恭平は「苦しいときには電話して」で
・相談相手がいない
ということが、電話相手の共通点と述べている。

この文章と、坂口恭平のこの指摘から語り「出す」ことは他者(もしくは社会と呼んでもいいかもしれない)への信頼を取り戻す過程なのではないか、と仮定してみる。坂口恭平が電話を取って一声目を発した時、その人が自身の声で語り出すのを促しているのではないか。そして、それはその人が他者への信頼を取り戻そうとする過程なのではないか。つまり「もう少し生きてみよう」と思わせる作用をもたらしいているのではないだろうか、などとカロリン・エムケと読みにくい名前の著者の本を読んで感じた。


僕は「自殺したい」と思ったことはない。「死ねば楽になる」そこが、僕が行った最低到達点である。なので、僕自身が鬱であったかは分からない。けれど、3ヶ月ほど誰とも話せず、部屋からほとんど出ることもできず、という経験をしたことによって、「死」という概念が頭をよぎることはあった。なんども。寝ようとすると、あらゆる経験が自分を責め立ててくるような感覚があり、僕の楽しい記憶たちは色を失い、声の形を失い、記憶の中の物体の輪郭が崩れていった。その時、不安と呼ぶべきか、圧力と呼ぶべき何かから逃れるのを助けたのが「死」という概念であった。

メメントモリは「死を思え」という言葉で、その瞬間生きていることの素晴らしさを表現しているものだと僕は認識しているけれど、この時の僕にとって「死を思う」ことは生きることから逃げることだった。
「死にたい」というよりも、「死ねば楽になるのか」と思えたことが、引きこもっている状態の僕の精神に幾ばくかの安心感を与えた。しかし、そう思えたことに「なんかおもろいな」と気楽にあれたことは、僕が自分自身を「鬱であった」と定義することに若干の抵抗をもたらしている理由だ。僕は坂口恭平の電話番号をアドレス帳に登録していた。

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(描き始めたパステル画)


もし本当に死にたくなったとき、ここにダイヤルすれば大丈夫かもしれない。そう思えたことは確実に僕の精神衛生にいい影響をもたらした。幸いにも最後まで電話をかける必要なく、僕は元気になることができた。同じように電話をしていないけれど、救われている人が他にもたくさんいるのではないだろうか。この場を借りて坂口恭平に「ありがとう」と言いたい。僕を救ってくれてありがとうございます。

なんとか外に出たり、話すことができるようになった僕は、朝起きて散歩をして、文章を書き、ウクレレを弾いて、パステル画を描くようになった。(坂口恭平の丸パクリや)あと習字教室と英語の塾にも通い始めた。毎日を作ることや学ぶこと、そして運動(散歩)に費やすことが僕にとっての薬になるらしいことを発見した。(これも坂口恭平の「自分の薬を作る」から色々実践してみてわかったことだ。)

先日、図書館で調べ物をしようと書棚を歩いていると、冒頭に挙げた文章が書かれた「なぜならそれは言葉にできるから」というタイトルの本がが目に入ってきた。

タイトルに惹かれて本を手に取り、表紙をめくる。その本が小説なのか、エッセイなのか、はたまた論文なのか、分からない。
ページをめくると、冒頭に

「窮地に陥った人間、閉じ込められた者、疎外された者、戦争や暴力の被害者ーー彼らが「それ」を言葉にしてほしいと頼む例は、後を絶たない」

とあった。

本を閉じて、その本を手に持ったまま目当ての本を探すのを再開した。この一文は僕が本を借りる決意をするのに十分な何かを秘めていた。

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(散歩の写真)


僕はある種の窮地に陥り、そこから戻ってきた。(それはこの本に書かれた被害者たちとは比べられないくらい可愛いものだけれど、僕個人にとってある種の窮地ではあった。)そして、そこから戻ってくるには語り「出す」ことが必要だった。語り出すことは他者に対する、もしくは自分の周りを取り巻く全てに対する信頼を回復することだったのだと、この本を読み進めて気付いた。ある日から僕は毎日のように友人に電話をしていた。

3ヶ月間誰とも話すことがなかった、他者から自分を孤立させた僕は、自分がどう思われているか自分でしか判断することができなくなった。
「俺はクズ野郎」
「俺は生きる価値がない」
1人になって行き着くのはそういう言葉だった。もし他者との関わりがあればコミュニケーションの中に何かを見出せるかもしれないが、自分という他者しか持たない場合は、自分のみで自分の価値を見出さなければならない。そんなことは不可能だ。まずコミュニケーションの機会があり、そこに自分の存在価値を見出す可能性のある他者からのリアクションがある、このことは「生きるとは何か」などという問いから自分を遠ざけるために必要なことであるように思う。

だからといって他者がいて、コミュニケーションをすれば万事解決ということではない。もし仮に自分を取り巻くコミュニケーションが、全てかりそめのように、薄っぺらいもののにようにしか感じられない場合は、それは誰とも話していないことに等しい。では、どのようなコミュニケーションが主体にとって「死にたい」状態から生へ向かわせるのだろうか。それは語る、という行為を含んだコミュニケーションではないか、いうのが僕が冒頭に提示した仮説である。

坂口恭平はこれまで2万人以上と電話をして、
・死にたい人はみな、同じ言葉を持つ。
と述べている。
そして、その一つが
・相談する人がいない
ということは冒頭にも述べた。

この「相談」を「語る」に置き換えても、さほど意味が変わらないように思う。

死にたくなる人は誰にも語ることができない状況、なのではないだろうか。

では、語るとは何なのだろうか。
語る、とは自分の個別時な体験を声に出す。と定義しようと思う。
その人自身がなぜか分からなけれど話したくなった事柄が声に出されたとき、その人は何かから解放される。そして、
「僕はここに居てもいい」
という感覚を取り戻すのではないだろうか。

僕はこれまでの人生で
「実は誰にも言ったことないんだけどね」
と前置きをして、何かを語り始めることがあった。逆にそう切り出されて何かを語り出されることがあった。
それはジェンダー的なカミングアウトであったり、僕にとっては取るに足りないように感じられる何かであったのだけれど、それらに共通しているのは台詞にもあるように
「誰にも話したことがない」
ということである。
それは
「こんなことを言うと、嫌われるかもしれない。」
とか、
「変な人と思われるかもしれない」
という恐怖があったことを意味している。

つまり、これらを語るとき、それを語り出す主体は
「この人なら嫌われずに聞いてくれるかもしれない」
と相手への信頼を形成していると言える。

何を語るのかはさして重要ではなく、語り「出す」ことが重要なのではないか。語り「出す」時点で語る主体の治療は半分終えている。あとは否定もせず、肯定もせず聞き手がただ耳を澄ませるだけだ。

坂口恭平のいのっちの電話は、他者への信頼を失った人(語れなくなった人)に他者への信頼を取り戻す(語り出す)効果をもたらしているのだと思う。

もし、どこかに自分の声を聞いてくれる誰かがいる、と感じられば人は生きられる。

この文章も、僕が今どこかにいる誰かに語っているのだろうと思う。僕が僕自身を生かすために。

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