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「踊る町工場」を読んで思い出したこと

僕の最初の就職先は潜水艦のプロペラや良くわからないエンジン部品の試作をチタンのロストワックスで行う町工場だった。

本当はわかっていた、自分はものづくりでは食っていけないと。けど、地元の国立大学で金属を専攻したので、親の期待を言い訳に自分に向き合うことを放棄したのだ。ただし、もし仮に地元の有名企業に就職できたとしても負けることはわかっていたので「規模が小さいけども、特別な技術がある会社」は僕にとっては、恰好の隠れみのだった。

技術力が高いこの会社には、量産ではなく試作案件が多く舞い込んでいて、特殊なものづくりに楽しそうに励む、社長や工場長をいつもうらやましく感じていた。同時にその楽しさがどうしても理解できない僕は、周りに良くしてもらえばもらうほど、苦しくなった。やはり自分がいるべき場所では無いという想いが時間の経過とともに大きくなった。

1年後、僕は港区のレストランで働いていた。

面接は港区の高層ビルで行われた。皇居や銀座が一望できるビルで、こんなきれいな景色は見たことが無かった。薄暗い町工場でおじいちゃん・おばあちゃんに囲まれていた僕は、ここにいる同世代に強い嫉妬を覚え、自分が本来いる場所はここだ!と何度も自己暗示をかけた。合格通知を受けた瞬間『二度と工場にも富山には戻らない』と思って上京した。


30歳の僕は台北の地を初めて踏んだ。なんと、当時逃げ出した富山の伝統産業(高岡銅器)を広めるためにだった。


今の学生は羨ましい。現在の高岡には能作やMomentum Factory Orii など単純にカッコいいと思える町工場が沢山あるではないか。(正確には15年以上前からこれらは既に革新的な取り組みをしていたが、知らなかったという表現が正しい)また、伝統産業は何も工場だけに限らない。デザイナーやクリエイター、観光業、中には映画監督もいて、なんだか楽しそう。

勿論、中にいる人間と、お手伝いをさせて頂く立場では役割も見える景色も異なるかもしれないが、今なら自信をもって言うことができる。

「富山のものづくりは面白い」「職人はカッコいい」「世界でも戦える」

地元の良さを地元や日本国内に伝えることは本人が行っているので、海外に伝えていくことが僕の役目だと思う。正直、このような形で伝統産業に関われるとは思っていなかった、だから人生は面白い。


タイトル 踊る町工場|著者 能作克治|出版社 ダイヤモンド社


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