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修行論 内田樹(7/22)

修行って何だろう。

同じような毎日が繰り返される中で、自分はどこに向かっているのか、ちょっとわからなくなってきているのかもしれない。

そんな時に、ふと「修行」という言葉が現れきた。

僕は結構、この「修行」という言葉を使う節がある。でも、それについて深く考察したことはあまりない。この際に、一回、そういう本を読んでみようと思い手にした本である。

いきなり「まえがき」でこんな言葉が書いてあった。

修行の意味は、事後的・回顧的にしかわからない。

おお、いきなりそう来たか。つまり、修行とは、それをやった後でしか、成果がわからない。昨今は何かを取り組む際は、目標設定型で、何か目的があってその都度、成果を計測する。

修行の成果は事後的・回顧的だから、そもそも目標なんて設定できない。ということだ。

それは、目標設定をした時点で、現時点での自分の枠組みを決めていることになるからだ。

この本の筆者は、合気道をやっている。武道の目的は天下無敵となることらしい。これはどういう意味なのか、詳しく解説してある。

広義で言えば、「敵」とは「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」である。その場合には、「無敵」とは「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化することを意味することになる。

そして、因果関係の中に、自分の身を置くことに否定している。

「敵を作らない」とは、自分がどのような状態にあろうとも、それを「敵による否定的な干渉の結果」としてはとらえないということである。自分の現状を因果の語法では語らないということである。

つまり、もともと無限の選択肢があったのに、敵によってそれが阻害された訳ではなく、そんなものはもともとなくて、許された可動域の中が、現状の全てだと考える。その中でどのようなことをするか。

「敵を作る」心は、自分の置かれた状況を「入力/出力」として理解する。
「ベスト・コンディションの私」がまずいる。そこに「敵」がやって来て、私が変調させられる。「敵」の入力を排除して、「私」の現状を回復すれば「勝ち」(できれなければ、「負け」という継時的な変化として、出来事の全体はとらえられる)

僕はこの状況を以下のように解釈した。その状況に完全に没入すること。区切りがなく完全に同化していること。

この本は、非常に深くて簡単に理解できるものではないなと思った。

それは非常に抽象的な概念が多く、それを経験している人でないとわからないどこか感覚的な要素が非常にある。

ただ、この本に書いてあることは非常に興味深い。納得させられる部分が非常にある。

「自我」を解き放ち、世界と完全に一体となる。

それが修行なのかもしれない。いや、修行は事後的・回顧的である。

つまり、一生探検し、死ぬ前にわかるもかもしれない。

いつもありがとうございます!まだまだ未熟者ですが、コツコツやっていきたいと思います!