揺られて(7月)
用事があって千葉の方まで出向いた。
現在は大学まで自転車通学をしているため、長く電車に乗ったのは久しぶりだったので映画を見たり音楽を聴いたりしながら目的地を目指した。
電車でもバスでも、公共交通機関というのは世を凝縮したような場所だと思うときがある。
暇を潰すものが新聞から携帯に変わっていくようすも、広告の種別がどんどん減っていき脱毛や英会話教室のものばかりになっていくのも、人の会話の中身はもちろんだが。
長い時間電車に揺られている間、たまに寝てみたりする。眠れなくて携帯を開いてみたり、ぼーっと景色を見てみたりする。
7月後半に入ろうとする季節の中でも電車の中は快適だ。
段々と東京から離れていく電車の中で、この曲の最後の歌詞が響いた。
東京に住んでいると、山並を見ることはほとんどない。そもそも、この歌詞は「山並」ではなく「山波」などで山の連なりではなく山や波のことを指しているのかもしれない。
若しくは、今まで考えんことや、今まで気にしないことが、分かる場所が「山波」なのかもしれない。
無性に遠くに行きたくなるときがある、訳が分かった気がした。
わたしはもっとその感情を逃避行的な意味合いだと捉えていて、ただここを離れたいということだと思っていた。
ある実、それも誤りではない。
しかし、その感情を掘り起こしたところには「山波」を求める自分がいたのかもしれない。もっと、別のところで考えたい。普段いるところにいたままでは見つけられないことがあるのだと、直感的に感じたことを衝動にしたものが「遠いところへ行きたい」ということだったのだろう。
どんな理由だったとしても、東京を離れることは一種のリフレッシュになる。だからといって、そこに意味を求める必要はない。ただ出てみる。
それでよいのかもしれない。何もかも言葉にすることだけが正しさではない、とひたすら言葉にする自分を後ろめながら心に留める。
山波の遠くに見えるものが薄くてよかった。
頭の中にまで響く音楽の、ギターが、歪んでいてよかった。
夏が来る。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?