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待ち望まなくても

「〇〇さんの一番気持ちが落ちる時はどんな時ですか。」


ある会社の面接で聞かれた。今までも書いてきていると思うが、私は人生トントン説的な 良いことがあれば悪いこともあるし、逆もそうであると思いながら生活を送っている。

その考えに則って言えば、一番気持ちの落ちる時は良いことがあった日の帰り道やその次の日である。

常に手放しで喜びを享受できない捻くれた性格は厄介なものであるが、ずっとそうしてきたのでもはや違和感などはない。


ただ、最近は素直に幸せだと思うことが増えた。


大人になるということが、自分の人生に責任を持つということが、クリアになればなるほど、将来への不安やこれから起こることの予想なんてものは何も役に立たないと思えてきたからかもしれない。


昔は、自分が不幸であると安心した。

不幸であるという前提条件を備えれば他人と比べて焦る必要がなくなるし、私には私の不幸せがあるから苦労している、よくやっている と思い込むことでなんとか形を保とうとしていた。

本当は何も成し遂げられない、プライドに見合わない実績のなさを誤魔化したかっただけだったのだと今ならわかる。


さしてつらくもないことを誇張して喋ってみる癖に、ふとした瞬間に思い出して苦しくなることについては上手く言葉に出来やしないという拗らせ方は今もまだすこしこびりついたままだが、だいぶマシになったと思う。





不幸せであることが、自分が存在して良い理由になるのではないかと思う時もあるのだけれど、実際はそんなこともないらしい。

目の前のことに夢中になっていいし、少しくらい夢を見ていいし、悩んでいいし、上手くいくことは悪いことじゃない。昔の自分ができるだけ選ばないようにしていたことたちと、距離が近づいている感覚。






美談を作るには、ある程度の不幸が必要なのかもしれない。

今まで一番苦労したこととそれを乗り越えた方法について何度も聞かれたこの頃、特に感じてきた。人は不幸のもとでしか分からないことがあると証明するかのように。

確かに何の苦労もしてなさそうな奴は浅はかに見えるし、トントン拍子で有名になるアーティストには魅力を感じないし、這い上がりもがく人の姿は美しく見えるものなのだろう。実際、何も苦労していない奴だと思われるのは釈だ。とはいえ、もがいているとアピールすることも違う気がする。


ただ、人には人の幸せがあるように、人には人の不幸があるので、無理に不幸になろうとしなくて良いということ。自分から不幸せを選ぼうとしなくて良いということ。


そもそも嫌なことなんてのは予想しない時に起こるから嫌なことなのであって、構えられるレベルのものなんて「試練」でしかないのかもと思う。





最近周囲と「大きな挫折をしてきてないから、ここでつまづくかも/つまづいといた方がいいかも」という話になることがあるが、上手くいくことの何が悪いのか。入りたい会社に入れたからといってしたい仕事ができるかといえばそれはまた別の話だし、人間関係で悩むかもしれないし、無理に苦労を選ばなくていいのになと考えるようになった。


他人と比べれば自分に起きた出来事なんて小さいもので、私は恵まれている と思うことは謙虚で素晴らしい。不幸自慢をする人よりよっぽどいいかもしれない。けど、自分の中に少しでも記憶が残っている出来事は全て自分を作ってきた大きな出来事ということを認めてもいい。
他人には分かれない不幸まで無理に共有しなくても、そばにいてくれる人はいるし、今日も音楽は鳴る。芸人はふざける。


そして、日々の幸せからしか分からないこともたくさんあるよ。

意図的に自分を卑下しなくても、勝手に気持ちが浮き沈んで自責思考になることもあるし、明日消えるかもしれない命で自分から大変な方ばかり選ばなくてもいいのだよ。

悲しいことばかり身構えなくてもいいよ。悲観的にならなくてもいいよ。目の前の幸せとただ向き合い、大切にすることは、それはそれですごく大変だ。そんな日々の中でも、無理して我慢することや目を瞑ること、妥協することもたくさんあるだろう。だからこそ、美味しいものを食べて幸せだと表情を緩める友の表情を眺められる時間を、素直に思い返していい。


そう、自分に言いたいだけであった。クレープが花のようだ。




この曲の最後の一節を受けて考えたことでした。

待ち望んでるときに限って
いつも いつも
悲劇は起こらないもの

化石/時速36km

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