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ソ連時代の強制収容所の話

ソ連時代のロシアでは、共産主義革命に反対する人々や裕福な農家の人々が一般の貧しい農家の敵とみなされ、秘密警察によって捕らえられました。

秘密警察は囚人となった人々を強制的に労働させる収容所を作りました。

収容所には1920年代には10万人の人々が収容所に収容されていました。

人数については諸説あるようですが、1930年以降もおよそ2000万人が収容所や植民地に収容され、このうちおよそ1割が収容施設が原因で死亡しました。

ソ連の収容所には、他にも戦争による捕虜や抑留者を収容する施設が500以上作られ、400万人が収容されました。

元々ロシアでは帝国時代からカトルガと呼ばれる収容所や植民地での労働させる刑罰が存在していました。ソ連時代の収容施設は、このカトルガより大規模なもので、生活環境も大幅に悪いものでした。

ロシア革命を成し遂げた革命家たちの中には、帝国時代にシベリアへの流刑や強制労働の経験をした人たちがいたため、この経験が収容所体制のモデルになったのかもしれません。

強制労働は共産主義政権にとって「再教育」と呼ばれて正当化されました。収容所では食べ物の量は、囚人たちの働きぶりで決められました。

古くから伝わる慣用的な表現に「働かざる者食うべからず」というものがあります。

レーニンはこの言葉を重視して、労働を行わない資本家を批判しましたが、結果的に労働者や囚人たちに対する過酷な労働を正当化するための道具に利用されていきました。

1924年にレーニンが亡くなると、スターリンが政権を掌握しました。3年以上の懲役刑を受けた人々は人住んでいない劣悪な土地の収容所に送られました。

1929年にスターリンは農業を国有化するために、裕福な農民を中心に投獄し、処刑をしていきます。

多くの人々が収容所や植民地に移送されましたが、当初は食料がほとんど配給されませんでした。このため流刑地におくられた囚人たちは飢餓に苦しみました。

収容所の囚人たちは脱走しはじめたため、政府は脱走ルートに秘密警察を配備し、脱走を試みないように生活環境の改善を図りました。しかしこの試みはあまりうまく行きませんでした。

ソ連は1930年に秘密警察の運営する収容所システムをグラーグと命名しました。ラトビア人のフョードル・イーヒマンスがグラーグ管理局の初代長官となり、2か月後に第2代長官としてユダヤ人のラーザリ・コーガンが就任します。

1931年から33年にかけて、白海・バルト海運河の建設が収容所の囚人たちによって開始されました。白海・バルト海運河は北極海にある白海とオネガ湖を結び、更にそこからバルト海へと繋げることを目的とした運河です。

特に白海からオネガ湖までは起伏が大きく、建設は過酷なものでした。

1932年からは収容所の長官にマトヴェイ・ベルマンが就任し、セミョン・フィリン、ラーザリ・コーガン、ヤーコフ・ラポポルト、ナフタリー・フレンケルらが建設・収容所の責任者を務めました。白海・バルト海運河建設の責任者の多くがユダヤ人でした。

ナフタリー・フレンケルは元々囚人でしたが、白海オネガ湾に浮かぶソロヴェツキー諸島にあるソロンと呼ばれた収容所での働きが評価されて看守の立場に昇格しました。

フレンケルは当時秘密警察の副長官だったユダヤ人のゲンリフ・ヤゴーダへ手紙を書き、その手紙が評価されたともいわれています。

フレンケルは「働いた分だけ食べる」ことができるという悪名高いシステムを考案しました。レーニンの「働かざる者食うべからず」という格言は、フレンケルのような実務者によって非人道的に実行され、強制労働収容所のあり方を決定づけていきました。

1932年から37年にかけて、マトヴェイ・ベルマンの下でヴォルガ川のモスクワ川を結ぶモスクワ運河が囚人たちの過酷な労働によって建設されました。

秘密警察副長官だったヤゴーダは、1934年から1936年にかけて長官の地位に上りつめます。しかしスターリンを満足させることができず、その地位をニコライ・エジョフに譲ります。

1930年代後半には高水準の教育を受けた囚人の数が激増していきました。これはソ連の革命家たちが知識人に対して強い敵意や憎悪を抱いていたためだったと言われています。

1936年から1938年にモスクワ裁判と呼ばれる反スターリン派に対する3度の裁判があり、第3代収容所管理局長官マトヴェイ・ベルマン、第4代長官イズラエル・プリネル、指導者のセミョン・フィリンらが反革命活動やクーデター計画の容疑によって逮捕され射殺されます。

この裁判で秘密警察の長官だったヤゴーダとエジョフもまた処刑されました。

ユダヤ人が3代続けて強制労働収容所の長官を務めていましたが、レオン・トロツキーが海外追放、モスクワ裁判により、グリゴリー・ジノヴィエフ、レフ・カーメネフ、カール・ラデック、グリゴリー・ソコリニコフといった有力なユダヤ人が処刑されたことにより、強制労働収容所でのユダヤ人の影響力も小さくなりました。

1939年にソ連はポーランドに侵攻し、この結果、約30万人のポーランド人が捕虜となりました。捕らえられたポーランド将校の多くが処刑されました。

一部のポーランド人は釈放されましたが、2万人以上が当時の秘密警察の長官だったラヴレンチー・ベリヤらの命令によりカティンの森で射殺されました。また、最も過酷とされたコルィマ鉱山の収容所に送られた1万人以上のポーランド人は1942年に釈放された頃には僅か600名以下になっていました。

1941年から1943年にかけて50万人以上の収容所の囚人が過酷な労働と飢餓により死亡しました。

第二次世界大戦直前には多くの鉱物や木材が強制労働によって供給されたため、ソヴィエトでは収容所経済と呼ばれる体制が形成されました。

戦争が始まると、武器弾薬などの物資、鉄道建設などに労力が割かれました。強制労働収容所はコストが低いにも関わらず、非現実的な高い目標を設定していたため見積もりが甘く、機械や道具の不足や、更に囚人は僅か睡眠時間しか与えられなかったために生産性が非常に低下していました。

ドイツ軍がソ連領内に進攻してくると、いくつかの収容所が解散され、秘密警察は、労働者の避難が間に合わず収容所の目前にドイツ軍が迫ってくると、労働者がドイツ人の手に渡ることを阻止するために囚人を虐殺しました。

戦争が終了すると、収容所と植民地の収容者数は急増し、1950年代初頭には250万人に達しました。ドイツに投獄されていた赤軍の生存兵のうち150万人が裏切者とみなされ労働収容所に送られたと言われています。

1953年にスターリンが亡くなり、一部の非政治犯に恩赦が行われました。1956年にフルシチョフがスターリン主義を糾弾したため、この後多くの人々が社会復帰を果たしました。1960年に政治犯以外の強制労働収容所施設の閉鎖が決まり、1987年に政治犯を含めたすべての強制労働収容所が閉鎖されました。

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